芭蕉たちが訪れた裏見の滝。
「しばらくは 滝にこもるや 夏の初め」
現在では、芭蕉と曽良がやったような、裏から滝を見るということは出来ません。
「あらたうと 青葉青葉の 日の光」
「剃捨て黒髪山に衣替え」
日光東照宮が造営されたのは、芭蕉が訪ねる50年ほど前であった。
江戸時代には、簡単に東照宮の境内に入り、自由に歩き回ることはできなかった。
身元の確かな者だと告げ、参詣の前日までに、旅籠屋に判賃を渡し、社務所で許可証(手判)をとってきてもらわなければならなかった。
曾良は、江戸の清水寺から日光の養源院への紹介状を使うといった方法で、許可証を手に入れたという。
また、参詣には、案内人も必要だったようだ。
芭蕉と曽良が見た日光東照宮は、さぞ、きらびやかであったことだろう。
「日光を見ずして、結構というなかれ」というように、元禄から天保にかけて、日光の見物人は爆発的に増えた。
鉢石宿(日光街道の終点)の旅籠や土産物店は約150年間で5倍に膨らんだという。
東照宮の参詣を終えた芭蕉と曽良は、仏五左衛門の宿に泊まったというが、その宿は、上鉢石のどこかであったらしい。
日光道中は、江戸日本橋を起点とし、千住、草加、越谷、粕壁とつづいていた。
曾良の随行日記によると、千住をスタートした芭蕉と曾良の最初の宿泊先は粕壁宿だった。
ところが、芭蕉は「おくのほそ道」本文で、ようやく草加宿にたどりつき、そこに泊まったかのように書いている。
千住宿から草加宿までは、10kmにも満たない。
当時の旅人は一日に10里(約40km)は歩いていた。
老身の芭蕉は、「自分が望んだ旅ではあるけれども、みちのくへの旅の困難さと旅の荷物の重さに、なかなか足が進まない」と強調したかったのだろうか。
粕壁宿での宿泊先は、東陽寺か観音院だろうといわれている。
春日部市教育センター内にある「郷土資料館」に展示されている「粕壁宿推定模型」を見て、再現された当時の宿場の様子にいたく感心した。日光道中(日光街道)沿いに、ウナギの寝床のような家がたくさん並んでいた。
300年以上も前に、芭蕉と曾良は弾んだ気持ちで、この通りをみちのくへ向かって歩いていったのだろう。
深川、清澄庭園の近くに、採茶庵跡がある。採茶庵は、芭蕉の弟子・杉山杉風の別宅であった。杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていた。
芭蕉は、芭蕉庵を処分したのち、杉風のこの採茶庵に移り、ここから、おくのほそ道の旅に出かけた。 採茶庵跡には、いま、まさに、みちのくへ旅立とうとする芭蕉がいた。芭蕉は採茶庵のそばを流れる仙台堀川から舟に乗り、隅田川をのぼって千住まで行く。現在、仙台堀川沿いは、遊歩道になっている。
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月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。・・・・住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、
「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」
表八句を庵の柱に掛け置く。
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ヤコブ病で亡くなった女性の、発病から亡くなるまでを記録した日記です。
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昨年秋から、ニチニチソウ(ビンカ)の冬越しに挑戦しています。
我が家に、「あまえんぼう あみちゃん」もやってきました。
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