麻衣子の記録 連載第2回

 私と妻の麻衣子は、年齢が4学年離れているので、麻衣子の定年までに、あと2年あった。私の定年から麻衣子が定年になるまでの4年間は、私にとって貴重で自由な時間のはずであった。麻衣子が私と同じように定年退職したら、たぶん、麻衣子の計画する海外旅行についていくことになるだろう。それはそれで楽しいのだが、私が自由に行き先を決めて旅行に行くというのは難しいだろう。
 私の定年後の最初の2年間は、順調だった。定年最初の年は、新幹線で九州旅行に出かけた。テーマは、「キリシタン」。その年の夏は、麻衣子とふたりでの海外旅行で、クロアチアスロベニアボスニアヘルツェゴビナ)へ行った。
 私一人の旅行はほとんどドライブ旅行だった。車に乗って、「二十四の瞳」の小豆島へも行った。松本清張の小説の舞台の能登へも行った。東北地方は8日間のドライブ旅行だった。テーマは「被災地、斗南藩遠野物語、岬、縄文時代」。見学地は、南三陸陸前高田遠野市→花巻宮沢賢治記念館→弘前城太宰治記念館→龍飛崎→三内丸山遺跡→大間崎→会津斗南藩記念館→むつ市→尻屋埼→八戸→三陸鉄道北アリス線久慈駅
 次の年は、3週間かけて、北海道一周ドライブ旅行を敢行した。テーマは、「北海道開拓」「オホーツク文化」「アイヌ文化」 。北海道を右回りに一周した。司馬遼太郎街道をゆく」の影響を受けたようだ。
 泊りがけのドライブ旅行は、せいぜい、年に2回ぐらいにしようと思っていた。やりすぎると、妻と娘の反感を買うに違いないから。泊まりがけのドライブ旅行のしない時期は、日帰りのドライブにした。それから、電車に乗って、東京へ出て、都内を歩き回った。こちらは、永井荷風の東京散歩の影響だ。
 それでも、定年後の自由な時間は余った。だから、家の掃除をしたり、壁にペンキを塗ったり、ふすまを張り替えたりのリフォームにも取り組んだ。
 海外旅行派の麻衣子と違って、本来、私は国内旅行派だったのかもしれない。私は、温泉へ行って、おいしい海の幸、山の幸でお酒を飲むのが何よりの旅行での楽しみだった。
 でも、麻衣子は海外旅行好きの義母の影響なのか、海外旅行が好きだった。私もそのおかげで、海外旅行の魅力を知った。子供たちが大きくなってからは、夏休みは家族4人で海外旅行へと決まっていた。子供たちが大学へ行ったり、就職したりしてからは、夫婦での海外旅行が多くなった。お互いが教職員だったので、夏、冬、春の長期休みは取りやすかったので、旅行には出やすかった。長い夏休みや冬休みは海外旅行、短めの春休みは、京都へ花見にと、私たち家族は、日本各地、世界各地を旅行した。
 麻衣子と私の旅行は、春の京都旅行が最後になってしまった。このところ、テロなどで政情不安な国が多くなったので、海外旅行は見送っていた。あと2回ぐらいは海外へ行きたいのだと、常々、麻衣子は言っていた。でも、それは、退職してからになるかな、とも言った。
 そして、私が、5月11日から28日までの18日間の奥の細道ドライブ旅行を計画し、ホテルの予約も完了した頃、あの、悲しく、つらい日々が駆け足でやってきた。