麻衣子の記録 連載第5回

4月28日(火)
 その日は、美帆がドイツから戻る日でもあった。そのため、朝、眼科まで麻衣子を送り、そのあと、成田空港へ美帆を迎えに行くことにした。麻衣子のことは心配だったが、診察を終えたら、ひとりで家に帰らせることにした。本当は、美帆には自分で、空港から家に戻るようにさせようとも考えたが、美帆は、私が迎えに来るのが当然のことと思っているだろうから、行かないわけにはいかない。私にとって、苦しい選択だったが、仕方がなかった。
 空港で、義母と美帆を出迎えた。埼玉へ帰る義母を見送ったあと、美帆を車に乗せ、自宅へ向かった。途中で、何度も、麻衣子の携帯に電話をしたが、応答はなかった。
 自宅へ戻ると、帰ってきているはずの麻衣子がいない。私は、不安になった。急いで、眼科へ向かった。眼科に到着し、受付の担当者に、麻衣子が家に戻っていないことを話した。すると、担当者は奥の方へ行って眼科医を呼んできてくれた。待合室に出てきた眼科医は、私にこう言った。
「あのね、視野検査をしてみたら、前の検査の時より、視野欠損がひろがっていたのよ。早く治して、学校へ戻りたいわよね。明日から連休になってしまうので、早い方がいいと思って、大学病院の眼科を紹介したのよ。しばらく前に、タクシーを呼んで大学病院へ向かったの。まだ、大学病院の受付あたりにいるかもしれないわ」
 私は、後悔した。空港へ行かずに、麻衣子にずっと付き添っているべきだった。タクシーでひとり、大学病院へ向かったという麻衣子の姿を想像して、いたたまれなくなった。どんなにか、心細かったことだろう。本当に、すまないと思った。私は、すぐに、自宅で、スーツケースの整理をしながら、私の連絡を待っているであろう美帆に、このことを連絡した。それで、美帆はすぐに大学病院へ向かった。私は、いったん家に戻った。美帆が、リビングにスーツケースを広げたままで病院へ向かったと伝えてきたので、もし、すれ違いに、麻衣子が帰ってきて、それに躓いては危険だと考えたからだ。家に着き、危険でない状態にスーツケースを隅の方に片づけてから、私も、病院へ向かった。病院へ向かう途中、美帆から、メールで連絡が入った。
「いたいた、母さんが見つかったよ」
 私は病院に着いた。眼科受付の方に向かって長い廊下を歩いていくと、美帆に付き添われて、こちらに向かって歩いてくる麻衣子の姿が見えた。麻衣子は、明るい声で私を迎えた。そして、
「病院でタクシーを降りてから、どうしようかと思って、ボランティアを探しちゃったわよ」と言って笑った。
 眼科では、早速、CT検査が行われた。しかし、結果は異常なしだった。「断層撮影で薄く切り分けて、異常が見つからなくても、その隙間に何かあるかもしれない」と眼科医は言った。そのため、後日、眼科に関するいくつかの検査をすることになった。病院が変わったので、MRI検査もあらためてすることになった。ところが、大病院というのは、個人の開業医とは違っていた。検査は、隣の検査センターで行うのだが、検査の予約はなんと半月も先だった。
「半月先だって?」 
 そんな先までとても待てないよ、と私は呟いた。

4月29日(水) 昭和の日
 新聞の細かい文字が読めないので、美帆が自分のiPadの操作法を麻衣子に教えていた。麻衣子の操作はたどたどしかったが、大きくした文字は読むことができた。
 私は、ラジオもいいかなと思って、私の小さなラジオの操作法を説明した。
 それから、触ると音声で時刻を知らせる時計を美帆がネットで見つけて、買ってくれた。

4月30日(木)
 早朝、一緒に、ウォーキングに出かけた。ややふらつきはあるが、麻衣子はなんとか一人で歩いている。私は麻衣子の後ろについて、その様子を観察した。
全盲になってしまえば、白杖が必要になるんだろうけどね、ある程度、視力が維持できていればねえ・・・」(私)
「強度の弱視だってそうなんじゃないの?」(麻衣子)
 本人は自覚していないようだったが、腕の振りと、手がちょっと変だった。私は、肢体不自由養護学校に勤務した経験もあるので、それがよくわかった。脳性麻痺の子供たちと同じような指先の形をしていた。歩いていく姿を見ると、体がぎごちなく、動きが硬く、しなやかさは少しも感じられなかった。
 この日、私は、麻衣子の病状を説明するために、聾学校へ行った。教頭先生は、「急に目が悪くなったのなら、治療すれば急に良くなるよ」と言ってくれた。

5月1日(金)
 麻衣子は美帆の付き添いで大学病院眼科に通院した。私ではなく、美帆が付き添ったのには、ちょっとした事情があった。通院に当たって、美帆は、私にこう命令したのである。
「医者に、母さんがスポーツジムへ行ってもいいか、聞いてこい」
「そんなの、今の状態を見れば、わかるだろう。無理に決まっているよ、危険だよ」と私が答えると、美帆は怒って、
「それじゃ、いい、いい」と言った。
 自分が、医者に聞くという。美帆が病院へ行くのなら、私は、行かなくてもいいだろう、付き添いに二人はいらないだろうと、美帆に言った。それで、私は家に残ることになり、麻衣子と美帆は大学病院の眼科に行った。二人は会計待ちの時、病院内のタリーズコーヒーでコーヒーを飲んだよと言いながら、楽しそうに帰ってきた。 通院の結果、いくつかの検査(眼科)の予定が追加された。療休のための診断書についても、15日ごろにもらえるということだった。 麻衣子には、それが何よりもうれしく、安心できたのだろう。
 決定した検査の日程は次のようであった。

 5月19日 14:10から MRI 画像センター
 5月22日 14:00から 電気生理検査 T大学病院
 5月29日 10:00から 色覚検査 T大学病院

 美帆によると、月末には一通りの検査が終わり、診断が出そうだとのことだった。眼底出血などはなくて、色の認識が少しおかしそうだと医師から言われたという。
「当分、検査、検査だね」と私は笑った。

5月2日(土)
 麻衣子は家事を自分で懸命にやっていた。夕方、麻衣子はリビングの絨毯の上に座って、洗濯物をたたんでいた。時々、その手が止まった。そして、大きなあくびをした。洗濯物はなかなか、たたみ終わらなかった。
 手探り状態の家事だった。炊飯器の水の量が確認できない、牛乳パックが開けられない、冷蔵庫にあるパックの区別が付かない。そんな状態だった。以前の視覚にはもう戻らないとあきらめながらも、麻衣子は、がんばって家事をやろうとした。麻衣子が言った。
「視覚って大切だね」
 昔から、聾学校では、視覚より聴覚の方が人間にとって大切だというのが普通の考え方だった。ヘレンケラーも、「感覚が一つだけ取り戻せるとしたら、どれを取り戻したいですか」という質問に、「もちろん、それは、聴覚だ」と答えたと聞いている。
 火曜日にドイツから帰国した娘は、たくさんのお土産を買ってきたが、ビールもチョコレートも、私にはまだ分けてくれない。もっとも、このところ、我が家はそれどころでない、慌ただしい出来事があったからなあ。でも、そろそろ、もらえるかな。

5月3日(日) 憲法記念日
 今日は日曜日、朝のウォーキングはいつもよりずっと遅く、10時半からになった。ウォーキングコースの途中にある、行列のできる「焼き芋屋」は、お店を取り囲むように、裏まで人がいっぱい並んでいた。道路にも、駐車場入り待ちの車が長く連なっており、整理員が行ったり来たりしていた。車のナンバーを見ると、近県からも来ているようだった。「たかが焼き芋、されど焼き芋」なのだろうが、私は、焼き芋なんかより、どこかの観光地にでも行けばいいのにと思った。
 私たちが、24年も住んでいる団地は、外壁の塗装工事中だった。でも、今日と明日は、工事がお休みだから、やっと布団が干せると思った。娘からは、やっと、土産物の分配があった。ドイツに行ったのに、ヘルシンキ空港で買ったゴディバのチョコレートだった。

5月4日(月) みどりの日
 麻衣子は、バルコニーで洗濯物を干した。バルコニーの周りは足場が組まれ、幕が張られていたので、外の風景は何も見えなかった。麻衣子は手探りで、一生懸命、家事をしていた。