麻衣子の記録 連載第6回

5月5日(火) こどもの日
 今日は、私たちの結婚記念日だった。この日が最後の記念日になろうとは。
 麻衣子は、早めに、お風呂に入ったが、タオルを見失ったらしい。麻衣子の声でわかった。そして、私を驚かせたのは、お風呂から出てきた麻衣子の格好だった。自分のパジャマと私のアンダーシャツの区別がつかなかったらしい。私のアンダーシャツを着た麻衣子が私の前に来て、「これで、いい?」と言った。私は、「それ、私のだよ」と麻衣子に言った。
 目が不自由だけなら、衣服の形や感触で、自分のパジャマと私の下着の区別ぐらいできるはずだが、麻衣子には、それができないのだった。
 麻衣子は、元気がなく、だんだんと話の応答も遅くなっていった。話し方もゆっくり目だ。でも、そのころは、病気のためというより、気持ちが落ち込んだ際に見られる行動の範囲と、私は思っていた。

5月6日(水) 振替休日
 朝、麻衣子とウォーキングに出かけた。今日は洞峰公園コースだった。麻衣子は、ほとんど、見えていないようだった。危険のないように、時々腕を組んだり、手をつないだりして歩いた。ふらつきも、以前よりも激しく感じられた。腕を組んで歩いているとき、近くの家の2階の窓から人影が見えた。「仲の良い夫婦だな、腕なんか組んで歩いたりして」とでも思ったことだろう。私は、ちょっと照れくさいなと思った。
 コースの途中にある、行列のできる焼き芋店は、開店1時間以上も前なのに、すでに、行列ができていた。駐車場も満車だった。
 家に帰って、おやつを食べさせた。麻衣子が大きめの皿の上に乗ったお菓子をフォークで食べているとき、お皿の中も、その周りにも、お菓子の小さなかけらが散らばった。私は、「左手を添えて、お菓子をフォークに乗せて食べるといいよ。行儀悪くもなんともないよ。それがいい食べ方だよ」と麻衣子に言った。

5月7日(木)
 朝のウォーキングに出かけるとき、麻衣子は団地の階段の一番下を降りたところで、体のバランスを失って倒れた。後ろ向きに倒れたが、幸いにも、怪我はなかった。気を付けなければいけないと思った。だから、洞峰公園コースのウォーキングでは、ずっと腕を組んで歩いた。麻衣子の手先のぎごちなさが気になった。
 ウォーキングの時、押しボタン式横断歩道に来ると、麻衣子は率先して手探りでボタンを探して押した。私は、麻衣子の視力の程度を探ろうと、むしろ、そのような行為を麻衣子に任せていた。幼児がボタンを押したがるように、麻衣子もボタンを押したかったのだろう。認知症が進んでいたせいなのかもしれなかった。
 ウォーキングから帰ってきて、麻衣子は、部屋の位置関係に戸惑っている。それでも、居間から自分の部屋、洗面所へ行くなどはできた。洗濯物干しもできる。ほとんど、見えていないように思うのだが、広告を読ませてみると、大きなひらがな文字は読み取れている。なんとも、ふしぎな見え方だった。

5月8日(金)
 朝のウォーキングでは、私が腕を組んでやれば、なんとか安定して歩けた。一人で歩かせるには、家の中であっても不安定で、転倒の危険があった。手指は多少ぎごちないが、普通に動かすことができたし、勘を頼りに、ひとりで室内で洗濯物干しもできた。でも、衣類の色や種類は区別できなかった。
 自分で着替えができるようにと、美帆が、下着の上下セットを1日分ずつ袋に分けて、タンスの引き出しに入れてくれた。時間はかかるが、タンスからその袋を取り出して、自分で着替えた。
 朝食時は、テーブルのお皿の場所を、私が言葉で説明した。「左の方に、パンがあるよ」「右の方には紅茶があるよ」というように。
 昼間は、家族が見守らない中での行動は危険と考え、私が、近くのスーパーに食事の材料の買い出しに行くときには、昼寝をさせた。 まだ、音声言語でのやりとりが、ややゆっくりではあるが、正常に行えた。それは救いだった。
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(朝食時の私と麻衣子の会話)
 麻衣子は朝食を食べながら、朝食後の予定について言った。
「洗濯をしようかなと思って」(麻衣子)
「20分ぐらいで終わる?」(私)
「終わらないよ。30分はかかるわよ」(麻衣子)
「それじゃあ、洗濯が済んで、ハンガーに掛け終わったら、少し休んでて。私が買い物に行ってくるから。その間はじっとして、あまり動かないで。ラジオでも聴いているといいよ。そうすれば、私は、安心して、買い物に行けるからね」(私)
「大丈夫だよ。地震でもあったら別だけど」(麻衣子)
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 麻衣子は、時々考え込むような様子を見せるが、精神状態は落ち着いていた。少なくとも、私には、そのように見えた。麻衣子は「目と頭が病気だね」と言うが、視覚の状態に比べれば、頭の状態はそれほど障害を受けていないように感じた。夜、台所で、麻衣子に作り方を教えてもらいながら、ハヤシライスとサラダを作った。食後、麻衣子は、副担任に電話をした。明るく笑いながら話す声は、全く、異常を感じさせなかった。これでは、電話の向こうの同僚は、麻衣子の病気はたいしたことがないと思ってしまうだろう。
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(副担任へ電話する麻衣子)
「聞いていると思うんだけど、なんか、視野が、あの、左が見えないって、お医者さんに言われちゃって、見えないってどういうことみたいな、なんとなく見え方が変で、距離感がつかめなかったり、体は元気なのに、どこが悪いのって感じで、学校へ行っても、足手まといになって、みんなに迷惑をかけるかなあって思って、休んだ方がいいのかなあって・・・」
                  
5月9日(土)
 朝のウォーキングは小雨が降ってきたので、途中で引き返した。
 麻衣子の朝食時での私との会話である。
「美味しく食べられる?」(私)
 麻衣子は、私が準備した簡単な朝食を一生懸命食べている。
「人間っていうのは、食事しているときが、心が一番安定しているって言うけどね。食べてる時が幸せってね。食べるって大事なことだね」(私)
「みんながみんな、そうかは、わかんないよ」(麻衣子)
「食べることに楽しみを見いだせない人もいるっていうことか」(私)
「この前のことだけど、あなたは、こげ茶のプレートの上に食べ物がまだ残っていると思って、何もないところをフォークで一生懸命すくってたよ。白いお皿の上の緑の野菜は上手に食べられるのにね。お皿によって見えやすさが違うのかな? 自覚はある?」(私)
「ほとんど、勘だよ」(麻衣子)
「視覚は活用して食べていないって事か」(私)
「よくわかんないよ」(麻衣子)
 麻衣子が食事を作れないようになってからは、麻衣子は何度も何度も、「よっちゃん、食べた?」と、私の食事の心配をした。もう、食事の準備をするのは、麻衣子ではなく、私の仕事になっていた。
 私が、2年前に定年になったとき、麻衣子は料理教室のパンフレットを見せて、ここへ行きなさいと言った。そして、週に1度は、食事を作るようにと言った。それ以後、私は、週に1回、ラーメンを作った。インスタントではない、結構、こだわりのラーメンだった。今思えば、私が一人きりになって、毎日、自分の食事を準備しなければならなくなるのを、予言していたかのようだった。
 午前中にM農園に行った。麻衣子は、このイチゴ農園と個人オーナー契約をしていた。以前の元気な麻衣子を知っているのだから、農園主が麻衣子の病気の姿を見たら、きっと驚くに違いない。私は気が進まなかった。でも、麻衣子はどうしても行きたいというので、車に乗せて農園に向かった。M農園の場所がなかなかわからなかった。それは、私が一度も行ったことがなかったからだ。ナビゲーションを使っても、なかなか目的地にたどり着くことができなかった。麻衣子に道案内をさせるのは、無理だった。窓の外が、はっきり見えないのだから。今、K銀行の前だよ、○○を過ぎたよと、周辺の様子を麻衣子に伝えたが、目的地への手がかりを得ることはできなかった。何度も、周辺をぐるぐる回って、やっと、農園にたどり着いた。
 最初、麻衣子の姿を見た農園主は、予想通り、驚いたようだった。それは、その表情で明らかだった。私に体を抱えられるようにして、麻衣子は事務所の中に入った。目が不自由な麻衣子はイチゴ園で終始ご機嫌だった。
「桃薫(とうくん)というのはねえ、桃の香りがする、めずらしい、とってもおいしいイチゴなのよ」と嬉しそうに私に説明した。目が不自由な麻衣子に替わって、私はオーナー契約継続の書類に必要事項を記入した。契約後、イチゴをたくさんもらって麻衣子は嬉しそうだった。「ことしも、よろしくおねがいしまーす」と元気よく農園主に挨拶して、私たちは農園を後にした。帰りに、スーパーに寄って食料品を買い、家に戻ってきた。
 家に戻ると、麻衣子は、部屋の位置を間違えてしまう。自分の部屋の衣紋掛けに帽子を掛けに行こうとして、出窓の方へ行ってしまう、キーを自分の部屋にあるフックにかけようとして、電話機の方へ行ってしまう。洗面所へ行こうとして玄関に行ってしまう。そんな状態だった。本人も方向感覚がおかしい、変だと感じているようだった。私は、これは視覚だけの障害ではない、空間認知に障害が現れていると思った。
 麻衣子は、バルコニーで洗濯物を干していた。物干しの棒の位置を間違えることもあったが、勘を頼りに洗濯物を物干しに掛けていた。お米の保管場所を忘れてはいたが、お米を自分で研いだ。
 数日前、麻衣子の病気について、埼玉の義母に伝えた。義母は、脳梗塞なら早く治療すれば、ちゃんと治るからと、脳梗塞の資料をFAXで送ってくれたりもした。
 その義母から、電話があった。麻衣子の病状は悪化しているのかと聞かれた。私は、「本人は以前と変わらないと言っているが、前よりも生活しにくそう」と答えた。麻衣子に電話を替わった。電話に出ると、麻衣子は、とても明るい声で話している。義母は、麻衣子の病状はそれほど悪くないと思ったに違いない。
 麻衣子は、部屋の中で、場所を間違えるとさすがに立ち尽くし、混乱して、ふさぎ込んでいるようにも見えた。洗顔しようと、洗面所へ行ったが、洗顔クリームが見つからない。
 夕食は海鮮丼を私が作った。にんじん、ジャガイモ、大根で味噌汁も作った。麻衣子はよく食べた。「食べ過ぎて、おなかが苦しい」と言った。