麻衣子の記録 連載第7回

5月10日(日)
 麻衣子は朝起きると、左のこめかみあたりを気にしていた。
 朝の着替えの際は、さらに援助が必要になった。朝の食事の時、考え込んでいるような様子で、なかなか食べ始められなかった。思い詰めたような様子で、涙が鼻に流れているようだった。これまで、独り、病気に苦しみながらも、私たちの前では、精一杯、明るく振る舞っていたのかもしれないと思った。
 豚汁の中の大根をスカートに落として着替えが必要になった。着替えをするために、美帆に自分の部屋まで手を引かれていく姿は、グンと年老いたように見えて、あまりにも哀れだった。そこには、かつて、一家に君臨していた麻衣子の姿はなかった。
 MRI検査の日まで、あと9日もあった。それまではまだまだ長い。その検査の日、埼玉の義母が来る事になっていた。私は、その時、2人が手を取り合って涙に暮れる姿を想像して、いたたまれなくなった。
 麻衣子が自分の車のことで悩んでいた。車をどうしたらいいかと。目は元通りにはならず、この先、車を運転することはないだろうと思ってのことだったのだろう。
 麻衣子が鏡台の前で鏡を見つめている。「全く見えていない」と初めて本人が漏らした。自分はいったい何でモノを見ているんだろうと。
 夕方、ウォーキングに出たが、雨が落ちてきそうだったので、焼き芋屋のところで引き返した。途中、私は、麻衣子がどのぐらい見えているのだろうかと確かめてみた。意外にも私の質問に正解だった。麻衣子は、コンビニは色でわかるし、横断歩道はシマシマでわかると言った。
 私は麻衣子に、「夜、夢を見る?」と聞いてみた。すると「仕事をしていたころは見たが、今は、寝ているとき、夢は見ない」という答えが返ってきた。
 麻衣子のモノの見え方は逆さめがねをかけたようなものらしかった。まわりで見ていても、そんな様子だった。数日前から、上下左右が逆に見えているようだった。私が、洗濯機のスイッチを入れる麻衣子を補助するとき、麻衣子は「私の上は、下なのね」と言った。
 美帆や麻美は、麻衣子の病気は、目の病気じゃなくて、脳の病気だから、脳外科に早く連れて行った方がいいと言うが、私は、まだ、19日の診察日を待って良いと考えていた。美帆や麻美よりも麻衣子の状態を、私が一番よく知っていたのだし、そのことについては、麻衣子も同じ考えで、待つことに同意していた。それに、今、大学病院の眼科の診察を受けている時に、脳外科で診てもらうのは難しいだろうと思われた。そうするより仕方がなかったのだ。

5月11日(月)
 午前8時頃から9時半過ぎまで麻衣子とウォーキングをした。麻衣子のウォーキングコースは2つあった。つくば駅コースと洞峰公園コースだった。今日は、つくば駅コースを歩いた。私は、麻衣子に、歩いている周辺の様子がわかるように、言葉で伝えるように努めた。「道路の両側の田んぼは、もう田植えが終わったね」とかだ。
「車が前から来るから、よけるよ」と言うと、麻衣子は私の体にしがみついた。
 団地に戻ると、麻衣子は、「喉がからから」と言った。すぐに、水を飲ませた。その後、麻衣子はサラダ、トースト、せんべいを少し食べた。紅茶は熱かったためなのかあまり飲まなかった。
 聾学校の教頭先生から電話があった。案の定、診断書の催促だ。校長先生からも言われているのだろう。診断書については、5月1日の眼科通院の時、医師に、こちらからお願いしたら、「病名が確定しないので、原因を調べるのに、1ヶ月の検査が必要で、その間、職務を遂行できない」という文面の診断書なら出せるということだった。その診断書は15日頃にもらえる予定だった。たぶん、教頭先生にとっては、療養休暇の期間(いつからいつまで)がはっきりしないと、替わりの講師をもらえないから、それが問題だったのだろう。診断書のことで、私と麻衣子はしばらく話し合ったが、麻衣子は言葉が出にくく、話しづらそうだった。診断書のことが、麻衣子の一番の心配事であった。
 教頭先生への応対のときはしっかりしていた麻衣子であったが、その後、元気がなくなった。寡黙になり、表情も硬かった。洗濯機を回して待っているうちに、眠くなったと言うので、横にさせて寝かせた。お昼ごろから午後3時過ぎまで眠っていた。起きてからは、また、元気を取り戻した。温かい乳酸菌飲料を飲み、ウニせんべいをいくつか食べた。その後、自分で、お米を研いで、夕食の献立を考えた。「無駄な時間をなくしたい」と言って、午後5時、自分で髪を洗った。着替えのこと、入浴後の洋服のことなどについて、考え判断する力が弱くて、遅い。食事の献立を考えるときも、その判断が元気な頃に比べて遅く感じた。脳の機能が、思考の面でも劣っているようだ。まるで、認知症のような症状であった。でも、とてもしっかりしているときもあれば、そうでないときもあるというように波があった。自分の部屋から、風呂場へ行くときの方向がわからないので援助が必要だった。
 今日は、トーストを焼くのも、洗濯物を干すのも私がやった。麻衣子は、ますます、自分のことができなくなってしまうのかもしれないと思った。

5月12日(火)
 雨が降るかもしれないので、ウォーキングは取りやめた。朝食後、麻衣子は自分で食器を拭き、ふきんを洗った。自分で洗濯もした。身体感覚は左右が逆の不思議な世界にいるようで、いろいろと自分でも、身体感覚を試し、確認している。天気が悪くなりそうで、風が強く、砂埃がひどかった。団地の階段では工事をしていた。私は一人で食料品を買うためにスーパーへ行った。
 麻衣子はウォーキングに行きたそうだった。
「焼き芋屋さんに行きたいな。隣の唐揚げ屋さんにも寄れるしね。唐揚げはカレーに入れて、唐揚げカレーにしてもいいし、あとで唐揚げだけ食べるのもいいな。美帆ちゃんは唐揚げが大好きだからね」
 無邪気な少女のように、「今日はまだ行っていない」と、何度も何度も、私に、ウォーキングをねだった。麻衣子が言うように、人気の焼き芋店の隣には唐揚げ店があった。
 私は、麻衣子の現在の視覚の状態をいろいろ試してみた。果物の黄色、オレンジの色が区別できるようだ。
 麻衣子の動作は極めて緩慢になっていた。そのためだろうか、麻衣子は「時間を効率的に使うんだ」と言って、夕方、顔を洗った。何事、時間がかかってしまうことが自分でわかっていて、どうしたら効率的にできるかを気にして、自分で工夫しているようだった。化粧品のキャップを閉めることなどはスムーズにできないので、それらは私が援助した。微細な運動がうまくいかないのは、脳性麻痺の運動障害と同じだった。
「自分のイメージ通りに体が動いてくれない」と麻衣子は言った。
「この病気から生還できたら、体験記を書きたいな。私は何も見えていないの」
「それなら、私は24時間テレビの障害者ドラマの脚本を書くよ」
 私は、絶望の中にいるだろう麻衣子を励ましたかった。
 夕方、麻衣子に教えてもらいながら、私は麻衣子流のカレーを作った。麻衣子は、「最初に、ニンニクとショウガを炒めると、とっても、香りが良くなるのよ」と言った。
 夜、美帆との会話の後、麻衣子ははじめて怒りの感情をあらわにした。いままで、あまりなかったことだが、これは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。麻衣子は、療休のための診断書がまだ出ていないことをとても気にしていた。そのことは、イライラの大きな原因だったと思う。

5月13日(水)
 朝、麻衣子が起き出してきて「手が濡れている」とか奇妙なことを言いはじめた。すると、美帆が「早く、脳外科に連れて行け」と私に向かって命令した。とうとう、美帆と私はけんかになった。私は、美帆に向かって、「お前は、馬鹿だ」といった。これまで、娘に対して、こんな強い調子で怒ったことなど一度もなかった。そんな私の態度に、美帆は驚いて、目に涙を溜めて、プイッと出ていった。
 私だって、悩み苦しんでいるのだ。これまで、いろいろな病院へ行って、たくさん検査を受けてきた。それで、次の検査の日を、我慢して待っているんじゃないか。今は麻衣子の病気を一刻も早く突き止めて、お医者さんに治療してもらいたい、そう願っている。
 しばらくして、美帆は鳥取の麻美に電話したらしく、麻美から私に電話がかかってきた。麻美に事の次第を話した。
 午前9時になって、いつものように麻衣子と一緒にウォーキングに出かけた。家に帰ってきたのは11時過ぎだった。途中、焼き芋のお店で焼き芋を買ってきた。つくばで人気の焼き芋店は開店して間もない時間で、それほどの行列ではなかったからだ。少しの間、並んだが、その間、麻衣子は私にしがみついていた。待っている間、試食もした。蔵出し2キロ詰め箱をひとつ買った。値段は2000円だった。箱には、細いさつまいもが16本ぐらい入っていた。この箱を両手にいくつも下げて帰る人もいた。
 帰ってきてすぐ、麻衣子に水を飲ませた。麻衣子は、イチゴと、少しのレタスを食べただけで眠ってしまった。
 午後、麻衣子はトイレの中で困っていた。トイレットペーパーがちぎれないというのだ。私は、中に入り、かわりにちぎってやった。普通なら、私がトイレの中に入ろうとしたら、拒否するだろう。でも、その時の麻衣子は、恥ずかしいという感情が、もう、失われているような気もした。
 麻衣子は得体の知れない病気に苦しんでいた。そして落ち込んでいた。
 私は、麻衣子のために、温かい飲み物を準備中だった。
「もうちょっとしたらできるからね。飲み物が」(私)
「すみません」(麻衣子)
「いえいえ、そんな」(私)
「ぼーっとしているだけで」(麻衣子)
「あなたがぼーっとしていると、心配にはなるんだけど」(私)
「なんにもできないからね」(麻衣子)
 続けて、
「なんにもできなくて」(麻衣子)
「それは仕方ないよ。病気なんだから。そんなことは気にしてないよ。心配なのは、あなたが、今、苦しいのかな、痛いのかなあって、それが、一番心配なんだ」(私)
「うん」(麻衣子)
 麻衣子は元気なく応答するだけだった。自分でできることが、どんどん少なくなっていくのは、麻衣子にとっては一番つらいことだったと思う。
 でも、夕食時には元気を取り戻して、私が作った讃岐うどんをよく食べた。
 夜になって、麻衣子は、怒って家を出ていったきり帰って来ない美帆の事を心配していた。夜中に、麻衣子は、何度も起き出して来ては、泣きながら、「今、玄関の方で音がしたから、美帆ちゃんが帰ってきたんじゃない?」と私に言った。それは、ほとんど子供のようだった。私は、この無邪気でかわいそうな子供を何度も何度も優しくなだめた。
 麻衣子の病状が厳しいと強く感じた一日だった。

5月14日(木)
 ウォーキングは取りやめた。麻衣子の朝食は、食パン、サラダ、紅茶にした。麻衣子のあくびが多いのが気になった。おやつに、ほっとかりんとせんべい(カレー)を食べさせた。洗濯機のスイッチを入れたりするのも、より困難になってきた。脳性麻痺の運動障害と同じだった。お昼ごろ、眠そうにしていたので寝るように話したら、眠った。
 麻衣子は午後2時頃に起き出した。起き出した麻衣子は精神的に安定していた。それは、これまで、独り、得体の知れない病気に悩み苦しんだ後の落ち着きのようにも見えた。
 私は麻衣子といろいろな話をした。麻衣子がこう言った。
「私ねえ、目が不自由になって初めて分かったのよ」
「何が?」
「障害者の気持ちよ」
「そうだね。健常な人が障害者の本当の気持ちを理解するのは難しいからね」
「私が、もっと早く、障害を経験していたら、私の教育法も違っていたわ。もっと、障害者の気持ちに寄り添った教育ができていたと思うの」
 従来、聴覚障害教育の指導法は、子供たちに対して、かなり厳しいものであった。麻衣子の指導法も、例外ではなかった。子供を追い込んで、日本語を獲得させるやり方だ。幼稚部での教育の成否は、いかに、正しい日本語を教え込めるかだった。聾学校の教員たちにとって、それは当然なことだった。
 麻衣子の言葉は、これまでの自分の、子供たちへの厳しい指導のやり方への反省だったと思う。
「病気が治ったら、新しい指導法でやればいいさ」
 と私が言うと、麻衣子は、
「私は、もうあきらめているから」
 と言った。
 それは、あまりにも悲しい言葉だった。麻衣子は話し終えると、急に発作を起こした。私は、そのとき、初めて麻衣子の発作を目撃した。麻衣子は痴呆のような顔になっていた。驚き、恐怖を感じた私は、あわてて、「麻衣子、麻衣子」と声をかけた。少しして、麻衣子は正気に戻った。
 もう、義母の助けを借りなければならない時期になったと私は感じた。明日いちばんで、お義母さんがやってきてくれる、私はそう思った。