麻衣子の記録 連載第11回

5月25日(月)
 私が、「言葉で話すことはできなくても、言われていることはわかるものね」と話しかけたら、麻衣子は「五感があるからね」と言った。私が「夢を見る?」と尋ねたら、「学校の夢しか見ないもん」と答えた。
 義母の来る日だった。そのことを美帆が麻衣子に話すと、「午後だってね」と麻衣子は言った。「病室が変わることを、お義母さんに知らせるよ」と私が言うと、麻衣子は「知らせてくれる」と言った。このとき、まだ、麻衣子の言葉はしっかりしていた。この日の午後2時半頃、地震があった。美帆が「埼玉県が震源なのに、どうして、最大震度が茨城南部の震度5弱なんだよ。おかしいよ」と言うと、麻衣子は笑った。
 麻衣子の左腕が固くなっていると美帆が私に言う。急速に病気が進み、手足が動かせなくなっている。でも、認知症が同時に進んでいて、本人は自分の体の状態を認識できないだろう。
 麻衣子は、自分の病気のことについて、何も言わなくなった。15日に入院したとき、あんなに「検査の日程を教えて欲しい、必要のない検査はしないで欲しい、食事制限について教えてほしい」と言っていたのに。今は、何も言わない。そのことも、哀れで悲しかった。
 看護師さんに名前を聞かれ、答えられずに落ち込んでいる。言葉が出にくいので、一生懸命、手話を使って表現しようとしている。まもなく、家族のこともわからなくなってしまうのかもしれない。
 今日、B棟638号室に移った。6人部屋だが3人が入院している。暗い雰囲気だ。重い病気の人ばかりなのだろう。
 また、病室が変更になった。ナースステーションに、より近くの636号室だった。夜間は私たちはいないわけだから、看護師さんたちが、それだけ、麻衣子に目が離せなくなったのが理由だろう。
 主治医、副主治医(担当医)らから、経管栄養のこと、告知のこと、転院のことについて私たち3人に話があった。
 担当医が言った。
「経管栄養に切り替えたいんですが」
 義母と美帆は反対だった。二人は、延命治療は嫌だといった。私は、経管栄養が延命治療だとは思わなかったが、「家内は、仕事で経管栄養の子供たちの教育に携わっていたから、きっと、がっかりするでしょう」と医師たちに言った。結局、担当医が、直接、本人に尋ねてみるということになった。後日、担当医から、本人から同意が得られなかったと伝えられた。
 告知については、私は反対だった。私は、治療法のない、こんな恐ろしい病気では、告知なんてできるはずがないと主張した。どんなに難しい病気だって、治療方法がないなんてことはない。そんな病気はごくまれだ。いくつか治療法があれば、本人がそれを選択できる。でも、この病気は、治療法の選択肢そのものがない恐ろしい病気だ。いったい、本人に伝える意味があるのか。急速に無動無言状態に移行してしまう病気だと伝えろというのか。本人を苦しませ、地獄へ落とすだけだ。
 これに対し、主治医は笑いながら言った。
「病名を言ったところで、本人にはわからないでしょう」
 私は、反論した。
「そんなことはありません。家内は障害児教育を長く担当してきましたし、いろいろな本を読んでいて、知識は豊富ですから」と。
 そして、絶望的な気分になっていた私は、医師に、こう言った。
「告知をする、今はそういう時代なんですね」
「そうなんです。そういう時代です」
 でも、病気の告知をすることはなかった。
 翌年、遺品を整理していたとき、麻衣子の本棚の中に、次のような本を見つけた。
 
小長谷正明 狂牛病 ~人類への警鐘~ 岩波新書
中村靖彦著 脳と神経内科     岩波新書
飯島裕一著 認知症を知る     講談社現代新書
 
 やはり、麻衣子は、この病気に関する知識を持っていたのだ。自分に最後まで隠された恐ろしい病気についての知識を持っていたのだ。私は、そう思った。今でも、後悔はある。告知をしないことが、正しい選択だったのかと。
 麻衣子がまだ元気だったころ、麻衣子は、死について明るく語っていた。
「人間は、死ぬ瞬間に、それまでの人生が走馬灯のように目に浮かぶのよ、それから、人は、最期に人生の帳尻が合うのよ」
 私は、死を話題にすることは嫌いだった。それを常に避けてきたともいえる。死はいずれやってくるだろうが、それを忘れて暮らすのが幸せというものだ、いくら考えたって解決はできないのだから、と。
 そんな私に、麻衣子はよくこう言った。
「よっちゃんは、臆病だから、不治の病にかかっても、内緒にしてあげるけど、私の時は絶対に教えてよ、絶対よ」
 麻衣子の病気が癌ぐらいだったとしたら、私だって、告知に同意したかもしれない。でも、こんな希望のない恐ろしい病気の告知なんて、できるわけがない。
 麻衣子が亡くなってから、麻衣子のこの「絶対に教えてよ」という言葉を思い出しては、告知をしなかったことが本当に正しかったのかと後悔することもあった。ただ、入院直後から、麻衣子の病状は急速に悪化していったから、告知について冷静に考えるなど、到底無理だった。そんな余裕も時間もなかったのだ。
 数日前、受持医のH先生が回診に来たとき、「今日は何月何日?」「何曜日?」と言われて答えられなかった。そのあと、「ここはどこですか? 住所です」と尋ねられたとき、麻衣子は、「稲敷郡阿見町」と答えた。麻衣子は、そのとき、病院ではなく、聾学校にいたのだろう。麻衣子の脳裏には、幼稚部のカレンダーワークの場面がうかんでいたのだろう。
 毎日、子供たちに問いかけるカレンダーワークが、自分に問いかけられている。そして、答えられない。これほどの屈辱があるだろうか。自分の名前さえ出てこない。残酷だ。
 受持医のH先生は優しく問いかけるが、これは治療のために必要な検査ではない。麻衣子にとって必要のない残酷な質問だ。
 今日は、調子の良い日だった。スイカをよく食べ、下剤もゼリーといっしょに服用できた。埼玉のお義母さんが今日から一週間居てくれる。心強い。
 麻衣子が死んだら、麻美のところへ行こう。美帆とは暮らさない。そう思った。