麻衣子の記録 連載第13回

5月27日(水)
 朝、10時頃、病室に着く。
「登場の仕方って大事だよねー」(麻衣子)
「入学式? 学校のこと?」(私)
「学校のことなんてどうでもいいんだよねー」(麻衣子)
「日付」(麻衣子)
「今日は5月27日、水曜日だよ」(私)
「5月27日、水曜日だよ」(私)
「ここは、T大学病院だよ」(私)
「先生に質問されたら、知ってても、答えなくてもいいんだよ。そんなの知っているよーってね」(私)
 麻衣子の言う「登場の仕方、大事だよねー」というのは、あの麻衣子を苦しめる受持医の登場の仕方のことを言っているのだと私は思った。
 義母が「お母さんだよー」と声をかけた。反応はない。   
 点滴針の交換になったので、私は談話室に行って、そこで待っていた。そこに、男の子が入院するために、母親に連れられてやってきた。その子は、ナースステーションに行くとき、「ちくりはいや」といって泣いている。母親と看護師さんは「お泊まりするだけだよ」となだめている。
 談話室には、ほかに、絵本を見ている女性がいる。おばあちゃんと孫らしい幼児がいる。談話室からは、ナースステーションが見えた。脳性麻痺の子供が、「痛いー」と泣いている。
 点滴針の交換が終わったので、麻衣子の病室に戻った。
「630病棟には子供もいるよー」と私は麻衣子に声をかけたが、反応がなかった。
 美帆によると、「麻美が帰ってくるよ」と言ったら笑ったそうだ。
 時々、麻衣子は目を開ける。私は、手を握ってやる。ぼんやりとしている様子だ。でも、左目から涙が流れた。
 院長回診なのだろうか、大勢の医師たちがやってきた。偉い先生なのだろうが、患者の気持ちへの配慮を考えているのだろうか。長い回診だった。麻衣子の症状を説明する声が聞こえた。麻衣子には聞かせたくない話だ。私は、「大学病院だね」と皮肉っぽく、麻衣子の耳元でささやいた。
 医師たちは、麻衣子のすぐそばにもやってきた。麻衣子は、無表情で怒ったような顔つきだ。それで、私は、医師たちに、「いやなことは答えなくていいんだと言ったら、家内が笑っていましたよ」と言ってやった。何人かの医師が笑った。
 一日の大半、麻衣子は職場のことを考えているようだった。麻衣子の口から、幼稚部のK君の話が頻繁に出た。
「教育と養育は違う」と麻衣子が言った。これは、麻衣子の持論だ。
 夕食のとき、麻衣子は、食べ物をなかなか受け付けなかった。それを見て、美帆が「やるきねえ」と言ったので、私は「そんなことを言ってはいけない」とたしなめた。私のその一言だけで、美帆はまた腹を立てた。どうしようもない娘だ。
 麻衣子は、鮭のムニエルは全部、ご飯も2口、イチゴとスイカを食べた。ゼリーで下剤も服用できた。食後、看護師さんにスポンジの歯ブラシで歯磨きをしてもらった。
 夜、義母と美帆が夕食をとるために、食事室へ行っているとき、担当医のY先生が回診に来た。麻衣子は、その直前にあった、びっくり反射のあとで、しかめ面をしていた。私は、苦しい状態なのかと先生に尋ねた。先生は、「基本的には痛みのない病気だ」と言った。私は、「病気」という言葉が麻衣子の耳に届くのではと心配した。病名が確定していると感づかれるのを恐れたためだ。
 義母は、麻衣子の病名がわかってから、「家族以外には会わせない」と言っていた。
 
5月28日(木)
 美帆は相変わらず、ちょっとしたことで腹を立てた。無表情で冷たい感じがする。麻衣子の看護で、落ち込んでいるのか、麻衣子の姿を恐れているのか?
 朝、9時30分頃、麻衣子の病室へ。
 麻衣子に「おはよう」と声をかけると、びっくりしたようなので、「こめんね」と言ったら、「ごめんねと言うんなら、引っ込んでて」と言われ、私は、悲しくなった。どうやら、もう、私は、夫とは認識されなくなったようだ。いやなことを考えていて、怒りが尾を引いていためなのか。あるいは、野生の脳が理性の脳に勝ってきたのか。
 美帆には、「ありがとう」と反応した。もしかすると、男の声=医師、女の声=看護師さんという認識をしているのだろうかと思った。医師は、自分を苦しめるが、看護師さんは優しくしてくれる。声だけが頼りの麻衣子にとって、私の声は男の声だ。だから、嫌いな存在なのかと思ったのだ。このところ、怒りの感情が目立ってきている。目つきにも、人に対する敵意の表情が見られる。これから、どうなるのだろうかと不安だった。
 午前11時頃に病室に入ったときは、麻衣子は眠っていた。美帆に聞いたら、話が通じないと言う。もう、コミュニケーションが難しい段階なのかもしれない。近いうちに、無言無動状態になってしまうのかもしれない。先日、医師からこの一週間だろうと言われていた。
 麻衣子の食事の時間になった頃、私は談話室から病室へ戻ろうとしていた。廊下に出ると、義母がこちらに向かって歩いてきた。麻衣子が食べないので食べさせて欲しいとのことだった。病室に入って、食事の介助をした。麻衣子が「ノーコメント」と言った。医師に対する彼女の態度のことらしい。そうだ、「ノーコメントだ」。
 これまで、受持医から、いろいろな質問をされ、これに答えられなくて苦しめられてきた。だから、「ノーコメント」でいいのだ。
 大好きなスイカを一口、口の中にうまく入れてあげれば、食事の始まりだとわかってもらえると思った。これがうまくいって、鯖もカボチャも食べた。スイカはたくさん食べた。
 麻衣子に語りかけながら、食べさせていると、今、麻衣子のいる世界は養護学校の摂食指導の場面のようだった。自他の区別がつかないのか、麻衣子は介助する教師でもあり、介助される子供でもあるようだった。私は、この摂食指導の場面を活用して、たくさん食べさせた。大豆油の点滴もあるが、今は、タンパク質や脂肪を口からとることは、大切なことだ。食事の楽しみを最期まで残してあげたいとも思った。
 今日、急に、埼玉から、弟の孝史さんが来た。今後、仕事が忙しくなったら来られないからということだった。麻衣子はたくさんお酒を飲んで泥酔しきった人のように、意味不明のことを口走っている状態だったので、孝史さんとまともなコミュニケーションができるのか心配だった。午後3時前に、孝史さんは帰った。孝史さんが帰るとき、麻衣子は孝史さんに「ありがとう」と言ったそうだ。孝史さんのことはわかったと思われた。
 談話室には10人ぐらいの人がいる。認知症らしい老女が看護師さんに話しかけられていた。リハビリの一環だろうか。老女は、早く退院したいと涙ぐんでいる。他に、子供がいる。630病棟には小児科のベッドもあるからだ。女学生のボランティアが若い患者に関わっている。いろいろな声がする。このなかには重病の人もいるだろう。患者たちはみんな苦しんでいる。でも、麻衣子の病気はもっともっと悲しい、希望が全くない恐ろしい病気だ。
 相変わらず、麻衣子は幼稚部のK君のことを思い出してうなされていた。K君のことが、よほど心配らしかった。
 夕食は、美帆が上手に食べさせた。麻衣子は、まだ、食べることができる。口の中に食物をうまく入れてやれば食べられる。麻衣子は、春巻きとえびのチリソースとスイカを食べた。これは、とても、うれしいことだ。下剤を飲ませることと歯磨きは私が担当した。
 美帆と義母が食堂へ食事に行っているとき、麻衣子は激しく体が動くことがあった。