麻衣子の記録 連載第15回

5月31日(日)
 朝、私は麻美に鳥取に行くと宣言した。美帆と一緒には暮らせないと。
 美帆の病院へ来る時の服装は、とても介護にふさわしいものではなかった。私は、いつも、それを気にしていた。だから、エレベーターのなかで、病院の介護の服装はジャージでいいんだよと話した。
 9時30分頃病室に入った。麻衣子は、声を出している。激しく体を動かして声を出す。話しかけたり、歌を歌ってやったりして、落ち着かせた。私が、麻衣子に、「校歌よりも、『ぼこうのうた』の方がいいよね」と言うと、麻衣子は「反対!」と言った。この「反対!」というのは、私の意見に反対というのではなく、「校歌制定」に反対という意味だと私は解釈した。聾学校では、50周年記念事業の一つで、以前からある「ぼこうのうた」に代えて、校歌の制定が進んでいた。私は、他の学校にはない、「ぼこうのうた」が気に入っていた。麻衣子も同じ考えだと思っていた。私は、「私と同じ考えだよね」と麻衣子に言った。
 いろんな話をし、歌(二人は80歳、思い出のアルバム、ふるさと)を歌ってやると、麻衣子は「うん、うん」と言う。うなずいているようにも見えた。発信は赤ちゃんのような喃語状態だが、受信は結構できているように思われた。時々笑ったり、苦しそうにしたりしている、あまりにかわいそうな麻衣子ではあった。無動無言状態に入るのも、まもなくだろう。
 今日はお昼ご飯が食べられるだろうか。でも、食べることができたのはスイカぐらいだった。麻美が帰るとき、麻衣子は「ありがとう」といった。一日、「ごめんね」という言葉が多かった。
「あした、おかあさんがくるよ」といったら、「わかった」と言った。眠るときの方が多くなってきたが、まだまだ、麻衣子だ。
 麻衣子は、最後の力を振り絞って、私たちに夢中で語りかけているかのようだった。
 男性の看護師さんがおむつの交換と、点滴の交換にやってきた。
「しにそー」と麻衣子が叫んだ。
 男の声はすべて、お医者さんの声に聞こえるのかもしれない。私の声も同じだろうか。でも、美帆の声はよくわかるようにも思えた。ボイスレコーダーを握らせると「ボイスレコーダー」らしき言葉が麻衣子の口から出た。麻衣子が「この病気から生還したら体験記を書くぞ、視覚障害者の痛みを知る貴重な経験だからボースレコーダーを」と言っていたから、ボイスレコーダーを持ってきたんだよと話した。そして、私は、毎日、日記を書いているよと伝えた。
 自分から言葉を発しないときでも、美帆が何か面白いことを言ったりすると、ちょっと間を置いてから、麻衣子は、「ブフッ」と笑った。言葉の受信はまだまだ、可能なのだと私は思った。
 麻衣子は、もう、あまりにもかわいそうな姿になっていた。ベッドに横たわり、左腕を折り曲げ、右腕は伸ばし、小刻みに上半身が動いていた。それは、自分の意思ではなく、不随意運動だった。時々、苦しそうに大声をあげた。そして、「ごめんね」と言った。何度も、怒りの場面と、謝罪の場面を繰り返した。混乱状態のあとは、眠った。そんな状態にあっても、まだ、口から食事をとることはできていた。
 この半月間の麻衣子の病状の悪化は、急激であった。義母もこう漏らした。
「病状が悪化するのが速いわね」
 麻衣子は、発病後40日で重度肢体不自由になった。そして、発病後50日で言葉も失われた。