麻衣子の記録 連載第16回

4 発作に苦しむ
6月1日(月)
 麻衣子は大部屋から個室に移った。今夜から私が使う付き添い用の折りたたみベッドと布団とをレンタルする手続きをした。夜間は私が付き添い、朝になったら、美帆にバトンタッチする。私は、家に戻って仮眠し、夕方になってから、自転車で病院へ行く。そういう24時間の付き添い体制を取ることにした。これは、いわば、私が一方的に決めた体制だったから、美帆には不満だったには違いない。
 実は、看護師長さんから、私に話があった。それは、個室を優先的に世話するというものだった。後になってわかったことだが、夜間に、麻衣子が大きな声を出したり、激しく動いたりして、同室の患者に迷惑をかけているらしく、それがその大きな理由のようだった。ただ、個室に入る条件として、昼間よりもむしろ、病院スタッフの少ない夜間に付き添いをして欲しいと言うのだ。それを聞いていた美帆が個室への移動に激しく反対した。自分は、まもなく職場復帰するのだと言った。美帆は、今の麻衣子には24時間付き添いは意味がない、不要だと言うのだ。それで、私は、「まもなく、義母が来るので、相談してからお答えします」と看護師長さんに話した。
 私は、個室に移りたいと考えていた。それで、美帆には、介護休暇をもっと取ってほしいと思っていた。その後、美帆は、不満ながらも、1カ月間、介護休暇を延長してくれた。介護休暇を渋々延長したのには、そうしないと、私にマンションの中間金を払ってもらえないということがあったのかもしれない。麻美から、「私がマンションの支払いを武器にしている」と美帆が言っていたと、あとになって聞いた。確かに、そのころの私は、介護休暇をとって母親の付き添いを手伝わなければ、マンションは買わないぞという無言の圧力をかけていた。
 私が、夜、麻衣子のそばで寝るようになってから、麻衣子の夜間の様子を始めて知ることになった。驚いたのは、麻衣子が自分の意思にかかわらず、体がひとりでに動いてしまうという不随意運動のために、夜間、よく眠れていないという事実だった。眠りたいのに眠ることができないということほど苦痛なことはない。以前、担当医から、「この病気は、基本的に苦痛はない」と聞かされていた。なんだ、大違いじゃないか。
 それで、私は、担当医に、この発作を抑える薬を処方してくれるように頼んだ。でも、担当医の返答は、「薬については文献を当たってみます」というものだった。症例の少ないこの病気では、発作を抑える薬でさえ、文献をたどって探さねばならないのかと、この病気に対する担当医の知識を疑った。そして、処方されるようになったのは、今から35年も前に承認された抗てんかん薬だった。
 でも、この薬で、麻衣子は、夜、やっと、眠れるようになったし、その後、頻繁にやって来ては、麻衣子を苦しめることになる発作を緩和させるための薬として、なくてはならないものとなった。その薬は、リボトリールという経口薬だった。朝夕2回、麻衣子にこの薬を飲ませることが、その後の私の大切な役目となっていった。
 もう、麻衣子は、ピクピクと体を動かしているだけのことが多くなっていた。言葉を発することもなくなった。私が、「ぼこうのうた」を歌ってやると、それに合わせているのか、一生懸命に、「たっ、たっ、たっ」と言った。