麻衣子の記録 連載第23回

6月18日(木)
 夜中は、予想に反して、よく寝ていた。
3:50 目を開けて、歯ぎしりをしている。発作のようだった。
4:45 完全に目覚めた。体が勝手に動く発作があった。そして、泣いた。歯ぎしり。
5:35 体位変換とおむつ交換。シーツを濡らす。ずっと激しい歯ぎしりが続く。少し上半身が動く発作があった。
7:30 朝の薬(夜の2分の1量)を飲ませる。目(瞼)がピクピクする状態がしばらく続く。苦痛を感じているようだ。少しして、薬が効いて、眠るような様子になった。ぼーっとしている。
9:00 目(瞼)がピクピクしているが、穏やかな感じだ。やがて、目がとろんとして、生気がなくなって、目を閉じた。でも、この状態は、苦痛よりはずっといいだろう。麻衣子の体に触れたら、びっくりして体を動かした。目を開けて、天井の方へ向けている。
 
 美帆と私の24時間看護体制では、麻衣子の様子について、LINEで連絡を取り合っていた。私が家に戻ったときの食事を、いつも美帆が作ってくれていて、冷蔵庫に入っていた。二人の関係はうまくいっていると、私は思っていた。でも、24時間看護体制は、美帆には大いに不満であったらしい。些細なことから、争いになった。
 
美帆から私へ
言い忘れましたが、昨夜洗面台下の清掃・整頓を行い、在庫としてあった男性向け洗顔料をお風呂場に置きました。また、歯磨き粉のストックを洗面台下右上奥付近に置きましたので、なくなった時はそちらからとって使用してください。本日の昼はカレーライスまたはうどん(冷凍)です。今日は遅かったので、病室に来るのは遅めで結構です。
 
 
私から美帆へ
わかりました。部屋の片づけは大いに結構なことですが、ママのものについては、処分を待ってください。ママは生きているんです。本人の許可がなければできないことです。
 
 
美帆から私へ
わかりました。ただし母さんの部屋のものも、ある程度動かさないと、どこに、何がしまってあるのか、何のストックがあるのかがわかりませんので整理しつつ動かします。
 
 
私から美帆へ
今、最優先すべきことは、ママの看護です。そして、これから、どう看護していくかです。
 
 
美帆から私へ
看護を最優先するというのは父さんのスタンスとして結構だと思います。ですが、それでは生活が成り立ちません。買い置きなどを確認できなければ買い物にも無駄が多くなります。消耗品類は確実に減らしていかなければなりません。遅かれ早かれ少し物を整理しなければ家を管理できません。看護だけでなく、それも含めて選んだ介護休暇です。ですので申し訳ないですが、私は片づけを継続します。看護に関して意見があるのであれば、週末、麻美と話し合うことを勧めます。
 
 私より収入が多いのに、我が家の家計に1円も入れようとしない。しかも、高校からずっと今も、スマホ料金さえ、私の口座から支払わせておいて、何を言うのだ。美帆が、自分の考えの方が正しいのだと、私の言うことを聞かないのはわかっていた。
 私は、家の中の整理が進んでいるのに気づいていた。食品のストックの整理程度なら、私も問題にはしない。問題は、麻衣子の物を整理し始めていることだ。麻衣子が生きているうちに、美帆に、麻衣子の物をいじられるのは、私には我慢できないことだった。
 だから、私は、マンション購入のことを持ち出した。
 
 
私から美帆へ
今は、無駄が多いなどを気にしている状況ではありません。これでは、マンション購入も、考え直します。私にとっては、マンション購入こそ、無駄です。
 
 
美帆から私へ
父さんがそう考えるのは仕方がないかも知れませんが、マンションは私にとっては、元気だった母さんが私の将来を含めて考えてくれたものであって、無駄ではありません。父さんの悲しみや思いはわかりますが、私のためを思った母さんの決断や意思を侮辱しないでください。
 
 マンションは、麻衣子が美帆だけのために購入を決めたような言い分だった。本来、マンションは、私と麻衣子と美帆が一緒に暮らし、ゆくゆくは美帆の所有となるものだ。第一、就職2年目の美帆に購入する資金などないだろう。最初の手付金の650万円も、麻衣子が定期預金を解約に行けないので、取りあえず、私の貯金(退職金)から支出したものだった。美帆は我が家の財産はすべて、麻衣子のものであって、そのお金で、自分のためのマンションを買ってもらう、そのように理解しているようだった。
 麻衣子が入院する前、病気がまだ深刻でなかった頃の話だが、マンションの部屋割りを、間取り図を見ながら、美帆が仕切っていた。 美帆が私に言った。
「父さんが、新しいマンションに持って行ける荷物は、段ボール2個までね。あとは捨ててね」
 まともな娘ならこんなことは言わない。これまで、3人で暮らしてこられたのは、麻衣子がいたからだった。麻衣子がいなくなってしまったら、美帆と私が一緒に暮らして、うまくゆくわけがない。私には、2人で一緒に住もうなんて考えられなかった。そういう意味で、マンションは、私にとって、もう、必要のないものだった。
 
 
私から美帆へ
だったら、ママに感謝して、残された日々を穏やかに過ごせるように努力すべきです。自分の将来より、今のママのことを、考えてあげなさい。
 
 
美帆から私へ
私は感謝していますし、努力を怠っているつもりはありません。だからこそ悩んだ末に介護休暇も取っています。家も回せなくなったらどうなるかわかっているからこそ精一杯できる範囲でやっています。私が、自分の将来だけを考えて片付けをしているといると感じているなら心外です。
 
 
私から美帆へ
これから、ママの看護がどれだけの期間、必要になるかもわかりませんし、もっともっとママの悲しい姿を見ることになるかもしれません。本当につらいのはこれからだと思います。人が亡くなると言うことは大変なことなのです。
 
 
美帆から私へ
わかってます。だから、まず、私たちがきちんと落ち着いて立っていなければならないし、そのためには、家と私たちの生活を回す必要があります。でなければ穏やかに看取ることはできないと考えます。片付けは、私が母さんが亡くなるという事実に向き合うための大切な時間です。
 
 以前、こんなことがあった。朝、病院で、後から来る麻美と美帆を待っていたとき、麻美から連絡があった。ちょっとトラブルがあって、少し遅れるというものだった。そのトラブルとは、なんと、美帆が、「マンションを買わないなら、病院へは行かない」と言い出したというのだ。私は、「順番通りで、義母も私もいなかったら、ママの介護は誰がするんだ。おまえたちがしなければならないのだぞ」と麻美に言った。
 私には美帆の言い分は、とうてい信用できなかった。そこで、私はこう書いた。
 
 
私から美帆へ
今晩、そのまま、ママのそばにいてくれないか。
 
 
美帆から私へ
理由は何ですか?
 
 
私から美帆へ
私は、このところ、まとまった睡眠時間をとっていないので、今晩は家でゆっくり休みたい。
 
 
美帆から私へ
睡眠時間がとれていないのは何故だかわかりますか。自分の理想を元に、体力の限界を超えて無理をしているからです。厳しいことを、言いますが、私は24時間介護は止めるよう進言したはずです。それでも続けたのは父さんです。賛同しているとは言いがたいのに黙って協力している私に対して、自分の考えや都合だけで当日に代わってくれと振り回すことや、マンション購入の件を使うのは身勝手な行動ではないですか? 今日は家にいて寝てくださっても結構ですが、自分の言動が現状において、妥当なものであるかを顧みてください。
 
 義母から、「あなたは、麻衣子にのめり込みすぎている。娘たちには、将来があるのだから、それを、考えてあげないといけない」と何度も言われた。
 私が、自分の考えだけで、回復することのない恐ろしい病気にかかった麻衣子を延命させている。そして、家族を巻き込んでいるということだろうか。
 マンション購入は確かに私の武器だった。でも、美帆も、麻衣子名義の預金や証券を私に隠していた。麻衣子名義と言っても、それは私と麻衣子の共有財産であって、麻衣子だけの物ではないし、美帆にはいっさい関係のないお金であった。それを、「母さんのお金、母さんのお金」と言って、管理するのは自分だとして、その詳細を私と麻美には教えようとはしなかった。それは、麻衣子の現状では、払い戻しできないお金でもあった。今、マンション購入に使えるのは、私の預金(退職金など)だけだったから、確かに有効な武器だった。卑怯かもしれないが、最後になると、私は美帆の急所であるマンション購入のことを持ち出していた。
 私には、娘たちが麻衣子の死後の準備を始めているらしいことが嫌だった。麻衣子は生きているのだ。
 美帆は、麻衣子が入院してすぐ、死後の手続きについて、驚くべき詳細リストを作っていた。私は、そんな娘ではなく、悲しみのあまり、何も手につかないで、母親のそばで、毎日、泣き暮れる娘たちを求めていたのだ。すでに、麻衣子が死んでしまったかのように、冷静に、手際よく、葬儀や相続のことについて考え、進めようとする娘たちを望んではいなかった。
 今は、生きている麻衣子にしてやれることを考える時なのだ。
 娘たちからすれば、父親が麻衣子のことで精神状態が尋常ではないから、父親に代わって、自分たちがしっかりしなければと思ってのことかもしれない。でも、それは、私には許せないことだった。そんなことは、麻衣子が天国へ行ったあとでいい。