麻衣子の記録 連載第65回

8月31日(月)
9:40 麻衣子の病室へ。シーツ交換のため、すぐには病室には入れず、ちょっと待つ。病室に入って、まず乳酸菌飲料を飲ませる。それから、喉のネバネバをとる。大量の固形物があった。これでは眠れないだろう。喉をきれいに、顔をきれいにしてあげた。
10:25 良い表情で眠っている。うれしい。「オワオワ」。唇と足が少し動いている。
10:30 検温37.0度
10:45 口の中がすっきりしたのか、良い顔ですやすや眠っている。看護師さんが口腔ケアと顔をきれいにするために来てくれたが、麻衣子が口を開けてくれないと私に言った。
11:00 薬を飲ませる。
11:08 怒ったような顔で、口を結んで歯ぎしり。鼻息が荒い。発作の一種だろう。「ぷっ、ぷっ、ぷっ」と声を出し、怒った表情を見せている。
11:15 喉のネバネバをとる。乳酸菌飲料を飲ませる。
13:00 検温37.1度。おむつ交換。
14:10 右足収縮発作。 
14:23 喉のネバネバをとる。
15:43 麻衣子が泣いている。私と美帆との争いを嘆いているのかな。
16:55 喉のネバネバをきれいにする。水を口に入れてやると、麻衣子は、飲み込まず、口に咥えたままだ。
17:30 両足収縮発作。
18:15 薬を飲ませる。
18:35 目ピクピクの不随意運動。続いて、喉を鳴らしている。
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 美帆が職場復帰してから、もう、麻衣子の看護は事実上、私一人の仕事になった。しかも、義母は孫のかわりに、1週間に1度、行ってあげるなんて言うから、麻美や美帆は、だんだん、来る回数が少なくなっていった。麻美は鳥取からだし、美帆だって、転院直後は週末に頑張ってやってきていたが、M中央病院は団地からかなり離れた距離にあり、来るのは大変だった。それに、仕事も大変だろうから、麻衣子に会いに来るのはそれなりの限界はあったろう。高齢の義母が、週に1、2度、来てくれるのはありがたかった。でも、麻衣子の弟は、高齢の母親が、車を運転して、埼玉からつくばへ行かせるのは心配だったらしい。
 私は、朝9時半から夜7時ぐらいまで、病院で過ごした。すっかり、朝の薬と夜の薬を飲ませるのが私の役割になっていた。他の人では、薬をうまく飲ませるのが難しかったのだ。朝の薬の時間までに病院に行って、最初に薬を飲ませる。その後は、ベッドのそばで付き添い、夕方、薬を飲ませ、寝入ったのを見届けてから、家に戻るという生活だった。
 美帆は、ことあるごとに、麻衣子に依頼されているので、私ではなく、自分の方が麻衣子の代理人だと言い張った。私は、大学病院から転院するとき、支払いに必要だからというので、麻衣子の保険証や免許証を美帆に渡してしまった。それ以後、何度話しても、返してくれなかったのである。私の実印とか麻衣子の預金通帳ならまだいい。M中央病院にいつもいるのは、私なのだから、私が保険証を持つべき必要度が一番高いのだからと言っても、受け付けなかった。
 麻衣子の付き添いを終えて、家に帰ると、美帆がお風呂で楽しそうに歌を歌っている。それは、母親が病気で苦しんでいるのを忘れてしまっているかのように思えた。次第に、私は、娘が作って冷蔵庫に置いてくれた朝食や夕食には手をつけなくなった。夜は、病院からの帰りに、食べ物を買って、家に帰り、自分の部屋に直行し、そこで、食べるようになった。ほとんど、会話を交わさなくなり、美帆とは家庭内別居の状態になっていた。大学病院で麻衣子の介護で、24時間体制で互いに協力し合っていたあの頃の二人の関係ではなくなっていた。
 決定的な破局は、些細なきっかけから始まった。美帆がLINEで私に、「まだ、今月、父さんから生活費をもらっていない」と書いてきたのだ。入院前、麻衣子が目が不自由な状態だからと、私は、我が家の生活費のうちの私の負担分を、半年分先渡ししていた。しかも、麻衣子の預金通帳はすべて、美帆が持っていて、その詳細を私は知らない。
 私より、ずっと収入が多いのに、我が家の生活費を一切負担しないでいる美帆の口から、「生活費をもらっていない」という言葉が出てきたのには驚いた。家賃や光熱費などは、すべて、麻衣子の口座から引き落とされている。麻衣子の入院費用は私が用意している。それらに較べれば、二人の食費など、たかが知れている。それでも、お金が足りなくて、私にもっとお金を出せというのだろうか。
 以前、こんなことがあった。大学病院で、交替で看護に当たっていた6月のある日、夜間の付き添いを終えて、昼間、家に戻ってみると、テーブルの上に、私に見せようとしたのか、ある冊子のページが開かれていた。それは、遺族年金についてのページだった。美帆は、麻衣子が亡くなった後、私が自分の年金に加えて、遺族年金ももらえると思っていたらしい。美帆は麻衣子が亡くなった後の私の収入を細かくチェックしていて、私には十分なお金が入るのだから、そのお金で生活しようと考えていたのかも知れない。
 私は、「1人でひとつの年金が原則」ということがわかる資料を、そのページの上に載せておいた。
 美帆は、新しいマンションで、わずかな年金収入の私から生活費を受け取って、相変わらずのパラサイトを続けるつもりなのだろうか。
 もう、こんな娘とは、一緒にはいられない。私はそう思った。
 私の美帆に対する現在の気持ちをわからせようと、美帆に言った。「麻衣子の物はすべて置いて、団地から出て行ってほしい」と。それは、激しい内容だった。でもそれぐらい言わないとわかってくれないと思ったのだ。そう強く私が出れば、驚いて、私に謝り、麻衣子の物を私に返してくれるものと信じこんでいたのだ。しかし、私の予想は外れた。この言葉は全く通じなかった。美帆は、自分は、世帯主である麻衣子から認められて、この家にいるのだから、出て行かないと言い張った。その世帯主というのは、私が退職し、住居手当がもらえなくなったので、かわりに麻衣子にもらってもらおうと、私が提案し、便宜的に私から麻衣子に変更したにすぎなかったものだ。今は、その麻衣子のかわりに、自分が世帯主だと言わんばかりだった。とうとう、私は娘に馬鹿にされるような、どうしようもなく情けない父親に成り下がっていたのだった。
 私は、ついに、決心した。娘が出て行かないなら、私の方が、出ていく、アパートに引っ越すと。
 それからの私は、ひたすら、それを実行するだけだった。まず、ネットで賃貸アパート・マンションを調べ始めた。自分の荷物だけを車で運べるような、近くのアパートで、病院からも遠くないところを探した。そして、私は、研究学園駅前の不動産屋の戸をたたく。私の精神状態は普通ではなかった。自分でもそれとわかった。