麻衣子の記録 連載第67回

9月4日(金)
9:45 麻衣子の病室へ。喉のネバネバをとって、乳酸菌飲料を飲ませる。
10:00 薬を飲ませる。
12:30 麻衣子がくしゃみをした。
12:55 検温37.0度。看護師さんが、たまには、環境を変えるといい、視界を変えるといいと言って、車いすに乗せてくれた。私は、麻衣子と、しばらくの間、廊下で過ごした。車いすに乗って、中庭に面した明るく広い廊下に出ると、麻衣子のやつれた顔が、むしろ、際立った。だから、看護師さんが写真を撮りましょうかと言ってくれたが、お断りした。でも、私は、麻衣子だけの写真を撮った。
14:45 声を出している。元気になったのかな。
15:35 両足収縮発作があった。
16:40 薬と乳酸菌飲料を飲ませる。
 
9月5日(土)
9:30 麻衣子の病室へ。口の中のネバネバをとる。ブラシを咥えて放してくれない。ベッドを起こさず、むしろ、仰向けの時の方が、口を開けてくれると思った。
10:15 検温36.7度
10:20 看護師さんによる口腔ケア。
 鳥取から帰省していた麻美に麻衣子を任せて、私は団地に帰った。姉と弟と会うためであった。
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 午後4時、笠間市に住んでいる姉と弟が、団地まで来てくれた。話すのはあくまで、麻衣子のことで、美帆の件は話題に出すまいと思っていたが、麻美が「美帆の件で団地に来るのですか?」と、姉のところに電話をしてしまったので、私は、それを避けることができなくなってしまった。現在の状況をありのままに、姉と弟に話した。私たちは、姉弟それぞれが家庭に悩みを抱えていた。むしろ、私の悩みが一番幸せな悩みかもしれないと思った。
 姉は、涙ながら、先に逝く麻衣子は幸せだと言った。
 私の母が病気で入院していたときの看護の中心は姉だった。父には小売商の仕事があったためでもあるが、私と弟は姉の指示に従って、母の看護にあたった。私は、そのような姉を見ていたので、娘が病気の母親の看護の中心的役割を果たすのが普通だと思っていた。
 麻衣子も、自分が病気になったことで、義母の世話を受けることになり、ある時、「どっちがどっちの看護だか?」と漏らした。
 麻衣子にとって、義母と私を残して先に逝くというのは、一番つらいことだったと思う。
 姉と弟は、私と美帆の件では、とりあえず、冷却期間が必要、離れて暮らすのは良いことだと言ってくれた。
 麻衣子は寿命だったのだ。姉の言うように、短かったけれども、幸せな人生だったのだ。そう考えることが、麻衣子にとっても私にとっても良いのだと考えようと思った。
 そう考えると、以前より、気持ちが楽になってきた。今、私がすべきことは、麻衣子を大事に大事に看病して、穏やかに天国に送り届けることなのだ。