12月4日(金)
0時51分、麻衣子は天国に旅立った。59歳だった。発病から239日目。入院してからは、204日目だった。麻衣子は、悪魔のような病気から、ようやく解放された。同時に、私の看護生活も終わりを告げた。私には、もう、麻衣子のために、してやれることが何もなくなった。
実は、麻衣子が本当に危なくなった時から亡くなった後も、いろいろなことで、娘たちとは争っていた。でも、それは、あまりに情けない争いだった。だから、ここには、その詳細を書かないことにした。私にとっても、そんなつらかった出来事は、早く忘れてしまうのがいい。
翌年の夏から秋にかけて、私は、奥の細道ドライブ旅行に出かけた。独り暮らしで、家の心配もあったので、麻衣子の入院前に計画していたのとは異なり、計画を3つに分けて実施した。
私も、60年余の人生の中で、いくつかの別れを経験した。生徒の死、友達の死、両親の死、でも、最もつらく悲しかったのは、麻衣子との別れだった。赤の他人が偶然出会って一緒に暮らしただけのことなのに、なぜ、肉親よりもずっとずっと大切な人になりうるのだろう、本当に不思議なことだと思う。
2016年9月14日、石川県金沢市に着いて、すぐに、見学予定だった願念寺に向かった。その寺は、忍者寺(妙立寺)の裏手の狭い道を進んだ左手にあった。忍者寺は若者たちで賑わっていたが、願念寺は寂しかった。
奥の細道の旅で、芭蕉には金沢で是非会いたいと楽しみにしていた俳人がいた。加賀金沢の茶商、小杉一笑だった。しかし、芭蕉が金沢に到着した時、すでに、一笑は亡くなっていた。悲しみにくれた芭蕉は、一笑の追善句会で、あの有名な慟哭の句を詠んだ。
「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」
願念寺の門前に、その句碑が建っていた。
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