奥の細道をたどる(その8)

 「あらたうと 青葉青葉の 日の光」
 「剃捨て黒髪山に衣替え」
日光東照宮が造営されたのは、芭蕉が訪ねる50年ほど前であった。
江戸時代には、簡単に東照宮の境内に入り、自由に歩き回ることはできなかった。
身元の確かな者だと告げ、参詣の前日までに、旅籠屋に判賃を渡し、社務所で許可証(手判)をとってきてもらわなければならなかった。
曾良は、江戸の清水寺から日光の養源院への紹介状を使うといった方法で、許可証を手に入れたという。
また、参詣には、案内人も必要だったようだ。
芭蕉曽良が見た日光東照宮は、さぞ、きらびやかであったことだろう。
「日光を見ずして、結構というなかれ」というように、元禄から天保にかけて、日光の見物人は爆発的に増えた。
鉢石宿(日光街道の終点)の旅籠や土産物店は約150年間で5倍に膨らんだという。
東照宮の参詣を終えた芭蕉曽良は、仏五左衛門の宿に泊まったというが、その宿は、上鉢石のどこかであったらしい。

奥の細道をたどる(その7)

1689年3月27日(陽暦5月16日)に千住をスタートした芭蕉曾良は、初日が夜雨、二日目は時々雨、三日目は昼過ぎから曇り、夜小雨と、天気に恵まれていません。
「雨を心配した芭蕉は三日目に宿泊した鹿沼で新しい菅笠を手に入れ、翌朝、日光に向かった」という話が鹿沼の光太寺に伝えられており、境内に芭蕉の笠塚が建っています。

鹿沼の掬翠園の中にも、芭蕉の句碑があります。

 「入りあいの かねもきこえず はるのくれ」

ネットで調べたら、「能因法師の歌「山里の春の夕ぐれ来てみれば入相の鐘に花ぞ散りけり」(『新古今和歌集』)にあるように、春の夕暮れといえば入相の鐘が必要だが、この村では鐘は撞かれないらしい。 」という意味だそうです。

 
 

 

奥の細道をたどる(その6)

芭蕉曾良は、千住をスタートし、粕壁(初日)と間々田(二日目)に宿泊した後、最初の歌枕の地、「室の八島」を訪れた。
歌枕「室の八島」は、栃木市社町の、ごくありふれた神社にあるが、この大神神社は、芭蕉が立ち寄ったことで一躍有名になった。
芭蕉は、この歌枕の地が想像していたのとよほど違っていたのか、「おくのほそ道」本文では、同行者・曾良が語る「室の八島」のいわれだけを書き、感想は述べていない。
ここで、詠んだ句もあるが、本文には一句も載せていない。
日光で詠んだあの有名な句「あらたうと 青葉若葉の 日の光」は、この地で詠んだ「あなたふと 木の下暗も 日の光」が元になっているという。

奥の細道をたどる(その5)

日光道中は、江戸日本橋を起点とし、千住、草加、越谷、粕壁とつづいていた。
曾良随行日記によると、千住をスタートした芭蕉曾良の最初の宿泊先は粕壁宿だった。
ところが、芭蕉は「おくのほそ道」本文で、ようやく草加宿にたどりつき、そこに泊まったかのように書いている。
千住宿から草加宿までは、10kmにも満たない。
当時の旅人は一日に10里(約40km)は歩いていた。
老身の芭蕉は、「自分が望んだ旅ではあるけれども、みちのくへの旅の困難さと旅の荷物の重さに、なかなか足が進まない」と強調したかったのだろうか。
粕壁宿での宿泊先は、東陽寺か観音院だろうといわれている。

 

春日部市教育センター内にある「郷土資料館」に展示されている「粕壁宿推定模型」を見て、再現された当時の宿場の様子にいたく感心した。日光道中日光街道)沿いに、ウナギの寝床のような家がたくさん並んでいた。
300年以上も前に、芭蕉曾良は弾んだ気持ちで、この通りをみちのくへ向かって歩いていったのだろう。

 

奥の細道をたどる(その4)

芭蕉は、元禄2年3月27日(現在の暦では5月16日)に千住で船からあがり、みちのくへ向けて出発する。
・・・・・・・・・・・・・
弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、富士の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心細し。睦まじきかぎりは宵よりつどひて、舟にのりて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそゝぐ。
   「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと見送るなるべし。
※「矢立」とは、墨壺に筆入れの筒のついた携帯用筆記用具のこと。ここでは、俳諧創造の旅の象徴。

奥の細道をたどる(その3)

深川、清澄庭園の近くに、採茶庵跡がある。採茶庵は、芭蕉の弟子・杉山杉風の別宅であった。杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていた。
芭蕉は、芭蕉庵を処分したのち、杉風のこの採茶庵に移り、ここから、おくのほそ道の旅に出かけた。 採茶庵跡には、いま、まさに、みちのくへ旅立とうとする芭蕉がいた。芭蕉は採茶庵のそばを流れる仙台堀川から舟に乗り、隅田川をのぼって千住まで行く。現在、仙台堀川沿いは、遊歩道になっている。
・・・・・・・・・・・・・・
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。・・・・住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、

「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」

表八句を庵の柱に掛け置く。

奥の細道をたどる(その2)

江東区芭蕉記念館には、芭蕉稲荷神社から移された芭蕉庵(芭蕉庵を模した祠)があり、その中に、芭蕉石像が安置されている。
江東区芭蕉記念館から出ると、隅田川堤防沿いにパネルが掲示されている。
そのパネルは、わざと、時の経過を感じさせるようにと銅板でできているため、それほど古くないと思われるのに、すでに読みにくくなっている。
近くにある国技館周辺を散歩するのは楽しい。
場所中の午後3時頃には、場所入りする力士が、国技館前にタクシーで乗り付けるが、それを見ようとたくさんの人が集まってくる。
その時、突然、引退した琴欧州関が背広姿で通りかかった。
 みんなは大喜びだ。

 

奥の細道をたどる(その1)

今から、7年前の2016年、私は奥の細道ドライブ旅行と称して、奥の細道ゆかりの地を車でたどった。
かつて、その記録は、フェイスブックに公開した。
その記録をもう一度振り返ってみたいと思う。
時々、内容を見直して、書き加えて行きたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東京都江東区隅田川テラス沿いに芭蕉庵史跡展望庭園がある。
そこには、時間が来ると回転するという、芭蕉像がある。
これは、杉山杉風が描いた写実的な芭蕉像を立体化した物だと言われている。
この展望庭園の近くには、芭蕉稲荷神社やいくつかの相撲部屋がある。現在、北の湖部屋はない。

 

 

小説「麻衣子の記録 クロイツフェルト・ヤコブ病の看護日記」を差し上げます

ご希望の方に、小説「麻衣子の記録 クロイツフェルト・ヤコブ病の看護日記」を差し上げます。

ヤコブ病で亡くなった女性の、発病から亡くなるまでを記録した日記です。

                                                                            連絡先:kamiru39113911@yahoo.co.jp