奥の細道をたどる(その8)

 「あらたうと 青葉青葉の 日の光」
 「剃捨て黒髪山に衣替え」
日光東照宮が造営されたのは、芭蕉が訪ねる50年ほど前であった。
江戸時代には、簡単に東照宮の境内に入り、自由に歩き回ることはできなかった。
身元の確かな者だと告げ、参詣の前日までに、旅籠屋に判賃を渡し、社務所で許可証(手判)をとってきてもらわなければならなかった。
曾良は、江戸の清水寺から日光の養源院への紹介状を使うといった方法で、許可証を手に入れたという。
また、参詣には、案内人も必要だったようだ。
芭蕉曽良が見た日光東照宮は、さぞ、きらびやかであったことだろう。
「日光を見ずして、結構というなかれ」というように、元禄から天保にかけて、日光の見物人は爆発的に増えた。
鉢石宿(日光街道の終点)の旅籠や土産物店は約150年間で5倍に膨らんだという。
東照宮の参詣を終えた芭蕉曽良は、仏五左衛門の宿に泊まったというが、その宿は、上鉢石のどこかであったらしい。