麻衣子の記録 連載第14回

5月29日(金)
 朝9時過ぎ、病院へ行った。麻衣子の病室に入った。麻衣子は両手を伸ばし、ベッドの隅に頭を落として、驚いたような、恐れたような、きつい表情をしていた。手を握って、体を楽にするように話したら、だんだんと体が弛緩してきた。「お義母さんと美帆が来たよ」と言ったら、うなずいた。麻衣子は顔をピクピクさせたり、笑ったりしていた。「昨日、孝史さんが来たのを覚えている?」と聞いたが、反応はなかった。このときには、麻衣子とはまともなコミュニケーションはほとんどできなくなっていて、麻衣子は、ときおり、単語で言葉を叫んだ。
 麻衣子が「日本語」と言った。ろう教育のことだろう。ろう教育の課題は、なんといっても、日本語の獲得だからだ。
 私が麻美のことが好きだという話や、美帆と私が仲良くなっているという話、海外旅行の話などの明るい話題を話しかけた。
 今日は、結構、声を出し、話している。怒ったり、笑ったり、やはり、「日本語が大事」と仕事のことばかり話している。そして、幼稚部のK君のことについて話し、わめいている。麻衣子は、もう、私のことはわからないだろうが、なんとなく、まだ、義母、美帆、麻美のことはわかっているような気もした。
 担当医のY先生が来た。先生は私たちに、転院の話、ケースワーカーの話をするので、私は、麻衣子にスイカやカレーなどの話を耳元でささやき、必死に先生の話を聞かせまいとマスキングした。話すことはできなくても、話しかけられた言葉はしっかりと受信して、理解できているかもしれないと思ったからだ。
 昼食はカレーライスだった。私は、半ば強引に食べさせた。
 午後2時前、校長、教頭の両先生がやってきた。待合室で現在の病状を説明した。義母が家族以外の人に会わせるのを拒否しているからと、面会は遠慮してもらった。
 麻衣子の夕食は、ぎんだらやれんこんの料理であったが、結構食べてくれた。美帆が買ってきた柔らかいハンバーグとスイカも食べた。食後、下剤を服用させた。
 夜になると、狂ったような声を出すことが多くなった。私は、麻衣子を落ち着かせようと、音痴な声で歌を歌った。でも、美帆は、私の歌が「うるさい!」と怒った。ここは大部屋なのだから、大きな声を出すなと。でも、そんなことなど、私には気にならなかった。私が、「ぼこうのうた」を歌うと、麻衣子は、何かを口ずさんでいた。
 夜9時近くになっても、麻衣子はなかなか寝入らなかった。しばらくして、やっと寝入ったようなので、私たちは、ナースステーションに挨拶をして、団地に戻った。
 
5月30日(土)
 麻美が鳥取から来る予定の日だった。朝9時30分頃、病室へ行った。今日は入院16日目だった。
 朝、声をかけたら、気がついたようだ。でも、「顔を見せたくない、会いたくない」などと言って怒っていた。反応がまともなような気もして、麻美のことがわかるかもしれないと思った。
 今日は、怒ったり、笑ったり、泣いたりの感情の起伏が激しかった。相変わらず、麻衣子の話はK君だった。昨日のように歌を歌って聞かせた。それが、麻衣子の心を落ち着かせるような気がしたからだった。
 もう、昔の麻衣子ではない、脳の中に怨霊が乗り移って、人格が変わってしまったかのようだった。でも、お昼の食事では、魚を全部食べてくれた。
 麻衣子が語る内容はすべて仕事についてであった。しばらく、声を出し続けると、疲れて眠り、また、目覚めて、話し出す。体を激しくこわばらせることもあった。こんな体になっても、やっぱり、仕事なのだった。
 麻衣子は、完全に、重度知的障害者だった。麻衣子のこんな姿を見ることになるとは思いもよらなかった。今は、穏やかな最期を迎えさせることが私の最大の課題になった。
 今日も、麻衣子の前で、私は音痴な声で、「ぼこうのうた」を歌った。夜の食事は豚肉だった。口に入れてやると、麻衣子は頑張って、豚肉を全部食べた。スイカもよく食べた。下剤も飲んだ。
 食後、麻衣子は興奮して大声を出した。
「ばかー」 
 隣の患者がさっとカーテンを引いた。それから、同じ部屋の患者が音を立てたとき、それが刺激になって麻衣子はびっくり反射を起こした。麻衣子は、次第に、笑ったり、怒ったり、狂乱状態になってきた。私は、このような状態が何日続くのだろうかと暗い気持ちになった。これは、きっと、植物状態(死)へ至る前の、魂の叫びなのかもしれないと思った。
 夜、団地で、麻衣子の死後のことについて話題になった。テーブルの上に美帆が置いた生命保険の資料が目に入ったからだった。私は、麻衣子名義の預金がいくらあるのか、どんな生命保険、医療保険に加入して、その額はいくらなのかほとんど知らなかった。確かに、病気で気弱になった麻衣子は、それらを私ではなく美帆に託していた。
 麻美は「母さんのお金なんかいらないよ」と言った。すると、美帆は「麻美が相続放棄しても、そのお金は、父さんのものにはならないね」と言った。それを聞いた私は、「新しいマンションを買わないで、この団地に住み続けたい」と言った。この言葉に、麻美は、「母さんとの思い出の団地に住み続けたいのね」と私の気持ちを察してくれたが、美帆は、なんと、私の少ない年金では、この団地に住み続けることはできないねと言い放った。私は、実に、不愉快だった。それで、切り出すのは嫌だったのだが、思い切って、こう言った。
「ママが死んだら、3人のそれぞれの相続分はいくらになるんだ?」
 美帆は、はっきりした額を言わなかったが、すべての麻衣子名義の資産を自分だけ把握していて、しっかり計算しているようだった。
「母さんが死んだら、父さんにはたくさんのお金が入る。だから、父さんが死んだ時には、麻美と私で山分けだな」と美帆は不敵に言った。でも、私に入るお金については、その額を私に教えようとはしなかった。すでに、契約変更をしているから、私の受取額は、テーブルの上の生命保険の資料に書いてある金額より、ずっと少ないというのだった。
 我が家にはお金がどれほどあるのだろう。麻衣子の死後に、私の年金のみで、暮らしが成り立つのかという不安もあった。しかも、マンション購入を控えている。でも、今、私は、我が家の財産の計算すらできないという、実に、情けない状態に置かれていた。父親として本当に恥ずかしい限りだが、完全にお株は奪われ、主導権は娘の美帆の方にあった。麻衣子のいない我が家では、麻衣子に替わって、美帆がすべてを取り仕切ろうとしていた。
 私は、それにわずかでも抵抗しようと、新しいマンションはあきらめたいと美帆に言ってやった。マンションが完成するまでの、分割中間金を支払うことのできる現金は、私の退職金の残りの預金だけだったからだ。
 そのころ、美帆は、病んだ母親に変わって、自分がしっかり、我が家を管理しようとしていたのには違いない。頼りない父親に任せておけないと。
 麻美は、美帆にこう聞かされたと、あとで聞いた。
「父さんに、大金を持たせたら、オレオレ詐欺なんかにあうとも限らない。私がすべて管理するのが安全」と。なんとも、娘に見くびられたものだ。情けない。