麻衣子の記録 連載第10回

5月21日(木)
 朝9時過ぎ、麻美、美帆と私の3人で病院へ行った。麻衣子はベッドに座り、テーブルに肘をつき、手に歯ブラシを握っていた。テーブルの上にはプラスティック製のコップがあった。朝食後の歯磨きのようだった。ひとりで上手に歯磨きができそうにはとても思えなかった。まあまあ元気そうだが、顔がさらに老けこんだような気もした。顔色に生気がなく、認知症が進んだような印象だった。トイレへ行ったが、体はさらに動きが悪く、これからは尿を管でとるようになるらしい。きっと、麻衣子にとってはとてもショックなことだろうと思った。私は、「今は、ベッドの上でおしっこができるようにした方がいいよ」となだめるように話した。
 病状は確実にそして急速に悪化しているのは明らかだった。お昼に、ハンバーグとカボチャが出て食べた。スイカもおいしそうに食べた。そして、焼き芋も食べた。
 その後、私と麻美も隣のデイルームで、おにぎりと味噌汁を食べたが、その間、病室では、麻衣子は泣いていて、美帆が抱きしめていたのだと、あとで美帆から聞いた。
 デイルームから病室に戻ってみると、麻衣子が、「役者は大事だ」と言った。何のことだろう。「役者」とは私たちのことか、麻衣子自身のことか。それとも、それ以外の人のことだろうか。あるいは、昔からよく言われている「教師は役者であれ」ということか?
 麻衣子はお昼に食べたスイカと焼き芋のことを忘れていた。
 今の病状をみていると、入院したときが、家で過ごす限界の時だったと改めて思った。でも、限界まで、家で過ごすことができたことは、むしろ良かったと思った。病気が早く見つかったとしても、治療があるわけでもないのだから。
 麻衣子が学校を休み始めてから入院するまでの20日間、私は麻衣子と一日中、一緒に過ごした。それは、今、考えると、幸福な時間だった。神様が私にくれた贈り物だったのかもしれない。
 プリオン病研究の同意書の様式が新しくなっていたので、もう一度同意書に記入して提出した。ヤコブ病には大別すると、4つの分類がある。孤発性、遺伝性(家族性)、変異型、医原性である。麻衣子の場合は狐発性であった。義母は、遺伝性を心配していたようだ。もし、遺伝性であれば、私と、孝史さんの連れ合いの2人以外はすべて、その遺伝子を持っている可能性があった。
 私が麻衣子に担当医のことを、「きれいな女医さんだよ」と言ったら、麻衣子は「私には見えないからね」と言った。私は、「早く、見えるようになるといいね」と話した。
 麻衣子が「なんだこれは」という寝言を言った。意味はわからない。
 麻衣子は、口をゆがめて、苦しそうな痙攣の表情をした。麻衣子が寝言で「あぶないね、ね」と言った。これも、意味はわからなかった。
 麻衣子の視覚については、もちろん、本人にしかわからないのだが、私たちが経験する真っ暗というのではなく、何らかの像を、残されている脳の機能が作り出しているのかもしれないと思った。
 毎日、受持医による反射検査、問診等などの回診があった。問診は、日付、曜日、住所などを尋ねる簡単な質問だったが、それは、ひどく麻衣子を苦しめた。麻衣子は始めのうち、受持医による質問に愛想良く答えていた。まるで、先生に質問されて元気よく答える小学生のようだった。でも、次第に、麻衣子は質問に答えられなくなっていく。受持医にとっては、それらの質問は、病気の進行を評価したり、書類を作成したりするために不可欠だったのだろうが、麻衣子にとっては拷問だった。あるときは、質問に答えられなくなって、「今、考えていますから、ちょっとまってください」と泣きじゃくった。その後、受持医に対する麻衣子の態度は変化していった。麻衣子は、受持医が来ると、反対側に顔を向けて拒否するようになった。それは、麻衣子にとって、病気の進行を自ら確認することを強いられる、残酷で、つらい場面であったからだ。やがて、麻衣子は自分自身の名前さえも答えられなくなっていった。
 午後3時頃、今日やってくる予定の義母を駅まで迎えに行った麻美と美帆が、義母と一緒に病室に入ってきた。義母は麻衣子が元気そうなので、ほっとしたようだった。洗濯についての話題になった。乾燥機は時間と電気代がかかるとか、風アイロンがあって、洗濯物がしわにならないとか、麻衣子は、極めてゆっくりな話し方ではあったが、きちんと話ができた。
 夕食はがんばって食べた。でも、食後の歯磨きで水を口に含んだとき、その水をはき出せなかった。そして、トイレには間に合わず失禁してしまった。私は、かわいそうなことをしたと思った。麻衣子には、また、1つショックな出来事だったに違いない。その後、落ち着きを取り戻したが、感情が高ぶったのか、涙を流していた。
 美帆と私が仲良く団結しているよ、と麻衣子に話した。
「仲良く団結するのは、ママが入院しているのだから、当然だよ。安心して養生してね」と。
 麻衣子が、私と美帆は馬が合わないのをよく知っていたからだ。
 義母が、私たちのために、夕食の弁当を買ってきてくれたので、私はウナギ弁当の方を選んで食べた。
 
5月22日(金)
 朝、午前10時少し前、病室へ行ったが麻衣子は眠っていた。顔色もよく、穏やかに寝ていたので安心した。しばらくして、目を覚ました。話しかけの反応は、主に「うん」というだけで、言葉は少ない。でも、会話はなんとか成立した。
 体の動きはどうだろう。昏睡状態(無言、無動状態)に進んでいくのだろうか。
 お昼過ぎ、麻衣子はスイカとイチゴを食べた。そして、また、麻衣子は眠った。出かけていた麻美と美帆が帰ってきた時に、麻衣子は目覚めた。
 午後4時30分過ぎ、埼玉から、麻衣子の弟の孝史さんが来てくれた。到着したことを麻衣子に告げ、私は退席した。
 しばらくして、病室の様子を見に行ったら、麻衣子と孝史さんは二人とも、泣いていた。それは、これまで、私には見せなかった姿だった。私はあわてて、デイルームに戻った。
 麻美は鳥取から毎回、飛行機に乗ってやってきていた。費用のことを心配しているかもしれないので、「麻美には交通費(飛行機代)をきちんと渡しているよ」と麻衣子に話したら、うなずいた。
 麻衣子の話す話題はどんどん変化する。ついていけないほどだ。
 受持医の回診があった。受持医に「今日は何月何日」と聞かれて、5月しか答えられなくて、神妙な顔になった。
 そこで、「今日は何月何日ですか?」の答えの練習をしてみた。
「5月23日土曜日 にいさんの土曜日。毎日毎日、幼稚部で、カレンダーワークをやってたんだぞってね」
 私が教えた記憶法に感謝なのか、麻衣子は私に「ありがとう」と言った。本当に回診の場面で言えるだろうか。
 
5月23日(土)
 朝、美帆がJAFを呼んで、麻衣子のプリウスを見てもらっていた。私は、美帆に、車のことより、ママのことを優先にしなくちゃいけないよと話した。美帆は、しばらく動かしていなかった車を修理して、母親を喜ばせたかったのだろう。
 笠間の姉から、電話があった。次女の理恵ちゃんが、ネットで病名について調べたのだという。
「大変な病気じゃない。あなたのところは、絶対に、そんなことはないと思っていたのに」
 電話の最後に、「大変だろうけど、麻衣子さんのことを大切にしてやってね」と言った。話し声が、終始、泣き声なのが分かった。姉は、小さいころから今に至るまで、常に、私のことを心配してくれていた。
 美帆と一緒に、朝10時前に病院へ行った。病棟についたとき、麻衣子はシャワーの時間だった。麻衣子のいない病室に入った。今日は入院9日目だった。やがて、シャワーを終えて戻ってきた麻衣子に、今日の午後3時30分に、幼稚部の子供たちからのお見舞いメッセージが届くよ、と話したら、とても喜び、涙を流した。
 朝は、メロンが出て、食べたという。お昼は、スパゲッティを少々、小玉スイカを4分の1弱食べた。
 午後3時過ぎ、教頭先生と学部主事の先生が見舞いに来てくれた。1階の待合室で、発病からこれまでの病状について説明した。義母が、家族以外、誰にも会わせたがらないので、という理由で、面会は遠慮してもらった。幼稚部の子供たちからのメッセージは私が代わりに受け取った。
 病室に戻って、学部主事の先生が届けてくれた、幼稚部の子供たちのお見舞いメッセージを麻衣子に読んで聞かせた。
 売店でお尻に塗るクリームを買ってきて、病室でその薬の話を美帆としているとき、突然、麻衣子から幼稚部のKちゃんの話が出た。でも、話がちょっと、ずれている。だから、Kちゃんの手紙をもう一度読んで聞かせた。それから、3歳児の幼児たちのお見舞いのメッセージに添えられた絵の説明をした。「うれしい?」って聞いたら、麻衣子は「うん」とうなずいた。
 夕食はご飯と鮭と春雨サラダだった。麻衣子は少し食べた。食後の下剤は飲むのがかなり難しい。水を口の中に咥えて、飲み込むのも吐き出すのもできないで苦しんでいる。看護師さんに話すと、今後はゼリー状のものに替えてくれるという。
 麻美が午後8時頃、東京での出張研修を終え、予定より早く、つくばにやってきた。私は、麻美に話した。
「美帆は、いろいろやってくれて助かる。でも、今は、ママのことを考えることが一番なんだ。余命一ヶ月と宣告されているのだから、葬式の準備は考えてもいいだろう。でも、相続のことなんてずっと後でいい。車のことなんてずっと後でいい」
 私は、美帆が生命保険契約の大きなファイルをむき出しのまま持ち歩いているのを見て、ハラハラしていた。その焦げ茶色のファイルの表紙には、大きな文字でN生命の会社名が書かれていた。麻衣子に頼まれて、入院給付金の手続きを、N生命の担当者とするためなのだろうが、入院患者や麻衣子の病気のことを知っている看護師はどう思うだろう。そんなことには、全く考えが及ばないのだろうか。
 美帆は、麻衣子が入院してまもなく、麻衣子の死後の手続きについての詳細なリストを作っていた。それは驚くべき内容で、多岐にわたっていた。
 麻衣子名義の資産(銀行預金、株式、国債)の確認、生命保険の契約確認、団地の名義変更、世帯主の変更、お墓のこと、麻衣子が加入していた料理教室、ジム、生協、農園の退会のこと、死亡届、葬儀場の予約、忌引申請、お悔やみの断り、遺影のための写真、家族葬、パスポート返納、贈与申告(過去3年分)、洋服整理等々。
 父親の私が頼りないから、自分がしっかりやらなければと思っているのかも知れない。母親のためにもしっかりやらねばと。余命一ヶ月と言われたこともあるだろう。それにしても、早すぎないか。手際が良すぎないか。この状況で、冷静にそんな計画を立てるなんて。相続なんて、ずっと、後のことではないのか。今は、麻衣子の看護のことを一番に考えるときではないのか。麻衣子は生きているんだ。
 
5月24日(日)
 朝7時前、鳥取へ帰る麻美を駅まで送るとき、私は、車の中で、「やっぱり、美帆とは暮らせないと思う、ものの考え方が違いすぎる」と言った。麻美は、「美帆とケンカしないでね」と言うだけだった。 さらに、私は言った。
「今一番大事なのは、ママのことだ。どんなに変わり果てようと、ママなんだからね」
 午前9時過ぎに、麻衣子の病室へ。麻衣子は、顔がやせて、グンと弱っている。反応も鈍い。点滴を取り替え、おむつも交換してもらった。
 でも、元気なときは、食事も進んだ。スイカはとてもよく食べてくれる。食が進まない場合は、経管栄養になってしまうかもしれないので、食べてくれたときはうれしかった。
 美帆が麻衣子に声をかけたとき、麻衣子は「ママじゃない!」と怒ったように叫んだ。私は、その時、麻衣子は幼稚部の指導場面を思い浮かべていたのだろうと思った。
 幼稚部では、授業中、教室の後ろに母親がいる。そして、授業中に先生の質問に答えられないとき、幼児は後ろの母親に助けを求めることがある。そんな時、「ママに助けを求めるんじゃない」と先生にも母親にも叱られる。私は、たぶん、麻衣子はそんな場面を思い浮かべていて、幼児に発した言葉なのだと想像した。
 美帆は他人の批判だけは得意だった。「父さんは役に立たない」と言った。それでいて、自分は病室で緑色のスマホばかりいじっている。そして、相変わらずの居眠りだ。目覚めると、またスマホだ。
 でも、私が12時頃、部屋を開けた時は、麻衣子に、えびフライを食べさせていたようだ。新しいマンションに美帆と少し住んでみて、やはりだめだったら、鳥取へ引っ越す。麻衣子は鳥取に連れて行く。私は、そう思った。
 受持医は、毎日、麻衣子にいろいろなことを尋ねる。それは、病気の進行を評価するために、書類を作成するために必要なのだろうが、それは、麻衣子をひどく苦しめた。麻衣子にとって、自分の認知症の進行を自覚させられる、毎日繰り返す拷問のようなものであった。
 麻衣子は自分の名前を聞かれ、答えられなくて、落ち込んでいた。思うように、言葉が出なくなってくると、可動域がますます狭められた両腕で、夢中になって、手話で表現しようとした。「ピーポーピーポー」と救急車の手話をやりながら、「うまくないなあ、この手話」と言った。
 麻衣子が、出にくい言葉と手話を使って、必死になって私に訴える。
「うるさかったって いってる ここ ここのひと」
「わたしたち うるさいって」
「ピピピピピピピピピピピ」
「ふつう そうだよね」
「でも わたしたち わからないよね」
「ちょっと ちょっと」
「そうだよね」
「うん うん」
「ごめん ごめん ごめんなさい」
「でも ほんとうは はじめて わかったんだもん」
 夜に、麻衣子が大声を出したので、同室の脳梗塞回復期の患者が看護師にクレームでも言ったのだろうか。
 それとも、カーテンで区切られた狭い中での、私たちの日中の会話がうるさいって言われたと、私に伝えたかったのだろうか。
 残酷な病気に苦しんでいるというのに、こんなことにも心を痛めている麻衣子は、本当に、かわいそうだった。
 私たちは、看護師さんから、明日、B棟630病棟に移ることを知らされた。
 私たちが、病室を後にする頃は、麻衣子は結構しっかりとしていた。
 
(以下はフェイスブックへの投稿)
久しぶりの投稿です。我が家に何事もなかったら、今ごろは「おくのほそ道」ドライブ旅行(18日間の予定)の終盤だったはず。でも、今の私は、朝の9時過ぎから夜の9時まで、大学病院の病室で過ごす毎日です。そして、それは、今日で10日目になりました。家内が目の不調を訴えたのは、4月10日でした。何の病気だろうと、いろいろな病院を駆け回り、CTやMRI画像検査を受けましたが、なかなか病名はわかりませんでした。病名がわからないのも無理はありません。100万人に1人という、とても珍しく、とても恐ろしい病気だったのですから。
 
 数年前から、私は、旅行や東京散歩の様子について、フェイスブックに投稿していた。それは、結構頻繁で、連日、投稿することもあった。しかし、麻衣子が病気になってから、近況についての投稿で、麻衣子のことには触れなかった。でも、麻衣子の入院10日目、久しぶりの投稿で、麻衣子の病気について、初めて書いたのだった。