麻衣子の記録 連載第9回

5月18日(月)
 午前11時、急に脳波の検査が入った。看護師さんに車いすに乗せられて麻衣子は検査に向かった。その検査中に麻美と義母が病院に到着した。1階のテラスで、私は疑われている病名について義母に話した。麻美からは、麻衣子の病名は義母にはまだ伝えられていなかった。私の説明に、そばで、麻美は涙を流して一緒に聞いていたが、さすがに高齢の義母はしっかりしていた。
「なんでまた、そんな病気にかかってしまったの?」
 午後4時半、診療スタッフから、病名(クロイツフェルト・ヤコブ病)が正式に私たちに伝えられた。余命は1カ月だという。この病気は、プリオンの検出をしなくても、脳波検査、髄液の分析、MRI検査の3つで診断して良いことになっていると医師は言った。モニターで、脳の神経細胞がどんどん壊れていく様子を表す数値を見せられた。私は暗い気分だった。私は、無駄な質問であることを承知の上で、あえて、こう質問した。
「来年2月に新築マンションが完成し、そこへ引っ越す予定なのですが、その時まで生きるというのは難しいですか?」
「それは難しい、余命は1カ月だ」と医師は繰り返した。
 入院以来、私は、ずっと考えていた。麻衣子とのコミュニケーションが可能なうちに、是非、伝えておかなくてはならないことがあった。それは、人生のパートナーとして、これまで一緒に歩んでくれたことへの感謝の気持ちだった。しかも、告知をしていない麻衣子に、永遠の別れと悟られないようにだ。
 「関白宣言」という、さだまさしの歌がある。この歌は、結婚するに当たって、妻へ関白宣言をするという歌だ。その中に、いつの日か、年老いて、別れの時が来たときは、俺の手を握って涙を2つ以上こぼせ、そうしたら、俺は必ずお礼を言うから、という一節がある。それを私は思い出していた。
 この歌のように、私も、「麻衣子のお陰で良い人生だった」と伝えたいと思ったのだ。私は、亭主関白ではない。むしろ、麻衣子に尻に敷かれていたといっていい。私たち夫婦は関白宣言の歌詞とは違って、私の方が手を握る立場になってしまったが、感謝の言葉を必ず伝えなくてはいけない。今はもう、残されている時間が問題だった。たぶん、時間はほとんどないだろう。もしかしたら、明日にも会話ができなくなるかもしれない。できるかぎり早く、実行しなければと私は急き立てられていた。そして、二人きりになった時、大部屋の中のカーテンで区切られたベッドの上に座っている麻衣子に向かって、私は、こう切り出したのだ。
「気分はどう?」
「悪くはないよ、でもねえ、なんなんだろうねえ」
 麻衣子は、弱々しく、ゆっくりと、うるんだような目で答えた。
「自分の病気が何なんだろうね、ってことかな?」
「でもねえ・・・、原因がわかんないのかなあ」
「今、原因を調べているんだけど、なかなかわからないから、たくさんの検査をしているところだよ、しかたないよね」
 そして、私は本題へ入った。
「あなたはね、茨城の大学を選んだでしょう。それから、大学を卒業して、聾学校に勤めはじめたよね。そこで、私と出会い、結婚しました。そして、麻美が生まれ、美帆が生まれ、もう、30年にもなるね。ちょっと、聞いてもいいかな。これまでの人生を振り返って、私と結婚してよかったかな? 私と出会うまでには、恋人もいたんだろうけど、私との人生は幸せだったかな? 変な質問だけど」
「今までの人生?」
「そ、そ、そうだよ」
「前もそんなこと聞かなかった?」
「そうだよ、私はそれがいつも心配なんだよ。同じこと聞くんだけど、どうだったのかなあって」
「おもしろいわねえ」
「そうだね、恥ずかしい質問なんだけど、やっぱり、そういうことって気になるんだよ」
「私って、基本的には、前にしたことは聞かないから」
「ええ、聞かないって?」
「同じ質問はしないから」
 鼻が、かゆかったのだろうか。麻衣子は左手の指をゆっくりと鼻のところに持って行った。その動きは、小刻みに震えていて、とてもやりにくそうだった。そして、こう答えた。
「別に、人に聞かれるのは、かまわないんだけど、私から同じ質問はしないわ。自分で同じことは絶対に聞かない」
「私は、何度も聞いちゃうな」
 と私は笑って言った。
「なんか、後悔してんじゃないの?」
「ちがうよ、私は、幸せだなあって、あなたと出会って、いい人生だったなあって思っているよ」
みんなのうたの、おじいさんとおばあさんみたい」
 と、麻衣子が笑った。
「二人で、おせんべ、半分こだね。私好きだよ、あの歌。確か、下条アトムと天地総子が歌ってたね。二人は80歳だったかな。外国の民謡に歌詞を付けたらしいね。ああいう80歳になりたいよね」
 私のこの言葉に、麻衣子は何も答えなかった。
 ここに、出てくる、「二人は80歳」というのは、昔、「みんなのうた」で放送された歌で、80歳の夫婦のほのぼのとした情景を描いたものだ。
 私たち夫婦がそろって80歳を迎えることはもうあり得ないことなのだと思うと、私は、どうしようもない寂しさに包まれた。
 
 夜、聾学校の教頭先生にLINEで伝えた。
お世話になっております。家内の病名がわかりました。クロイツフェルト・ヤコブ病、余命1ヶ月です。職場復帰は不可能ですので、直ちに退職するか、しばらくの間、療養休暇とするかについてはご相談したいと思います。
 
5月19日(火)
 朝、10時前に、義母、麻美、美帆、私の4人で病院へ行った。病気が急激に悪化してゆく麻衣子に会うのは、とても、つらいことだった。だからこそ、私は、誰よりも先に病室に入ろうと、いつも、麻衣子の病室に近づくと足を速めた。
 麻衣子の状態は良さそうだ。
 朝は元気だったが、その後はぼんやりとして眠っていた。ときどき、うなされたように声を出すことがあった。
 麻衣子は「スリッパが落ちた」、「いすから落ちた」、「エンブレム」など私には意味のわからない言葉を発した。これから先、殺人タンパク、プリオンは麻衣子にどんな悪さをするのだろうかと、私は不安だった。
 娘たちがタリーズのコーヒーを買いに行ったあと、大勢の医師が回診に来た。その後、麻衣子はちょっと眠った。目覚めたとき、その時のことを尋ねてみたところ、麻衣子はしっかりと覚えていた。それは、医師に「頑張ってくださいね。検査がちょっとありますので。今、何か困っていることはありますか?」と聞かれて、「目が見えにくいことかな」と答えたことだった。さらに、医師の話を思い出し、「後頭部のこのあたりがやられると、こういう症状が出て、と言ったんでしょ」と自分の後頭部を指さしながら言った。「先生たちが部屋から出ていくとき、あなたは、『よろしくおねがいします』と言ったんだよ」と私が言うと、「無意識に言ったのかなあ」という答えだった。
 私が、「頭は痛くない?」と聞くと、「頭は痛くないし、・・」と麻衣子は答えた。また、麻衣子は「23番目の脳を刺激すると、運動野が働く」と言った。麻衣子はこのとき、とても落ち着いていて、受け答えもしっかりしていた。
 娘たちが帰ってきた。麻衣子は、カップを美帆に手で持ってもらい、ストローでコーヒーをおいしそうに飲んだ。そのあと、麻美に、モロゾフのプリンをスプーンで口に入れてもらった。「どうですか、味は?」と私が尋ねると、「昔から、変わらないわねえ」と言ったので、みんなが笑った。
 夕食は麻美に食べさせてもらった。自分でスプーンを持ちたそうな手つきをしていたので、私は、麻衣子に「口だけ開けて、麻美に口まで運んでもらった方がいいよ。なかなか、やってもらえないことだよ」と言った。言葉は出なかったが、麻衣子は、おかしそうに笑った。
 
5月20日(水)
 私と麻美と美帆の3人で、朝10時近くに病院へ行った。体が、かなり弱っているような印象だった。なんとなく、暗い。「体の状態は悪い」と麻衣子が言う。昨夜は、よく眠れなかったようだ。体に痛みはないが、「頭が・・・」と言う。頭の状態が異常なのを自覚しているようだ。
 麻衣子の口から、「おわり」という言葉が出た。自分の運命を悟っているのだろうか。娘たちから、何の拍子か、エンディングノートの話題が出た。私は麻衣子の前でそんな話はやめてもらいたかったので、さらりと別の話題へ振った。
 麻衣子に、団地のバルコニーの塗装が済んだので、ヨドコウの物置をバルコニーに戻したよと伝えると、「どうも」と麻衣子は言った。そのころ、私がこれをやっておいたよと言うと、「どうも」と、繰り返し同じ言葉で、麻衣子は私にお礼を言うのだった。
 昼食は、蕎麦のようだった。美帆が「嫌いじゃん」と言ったら、麻衣子は「そういうわがままなことをいっちゃいけないよ」と言った。その後、ザリガニ釣りや、カブトムシ、蛙の話題になった。麻衣子は「ザリガニ釣りは幼稚部の一大イベントだね」と言った。美帆が「3歳児の名前は?」と言ったら、麻衣子が「検査の続きだね」と言って、指を折りながら、ひとり一人の名前を言い始めたが、入学式から、それほど経たないうちの入院だったため、全部の子供の名前は出てこなかった。それでも、話はおおいに弾んだ。麻衣子は言葉を出しにくそうではあったが、言葉の表出はそれなりにできていた。
 体重測定をしてもらったら、37.5kgだった。「ありがとうございました」と麻衣子は体重測定をしてくれた看護師さんに、丁寧にお礼を述べた。昼食の後、トイレに行きたいというので、トイレに行ったが、行きも帰りも車いすに乗せられた。乗り降りも大変で、時間がかかった。間に合わず、トイレの中で、下着とパジャマを水で濡らしてしまった。ベッドに戻って、下着とパジャマを取り替えてもらったあと、深刻な顔をしていた。もうこんなことまで、自分のことができなくなってしまったのかと、落胆したのかもしれない。かわいそうで、悲しかった。
 麻美と私は、夕食をとるため、病院内のレストランへ行った。麻美はヘルシー定食、私は天重にした。私は、ママの昼食のエビ天を見たので、天重にしたのだと麻美に言った。私は、麻衣子が病気になってから、美帆と3人の生活のことを麻美にぶちまけた。美帆の態度にとても我慢ができないのだと話した。私は、新しいマンションは4LDKなのだから、麻美も鳥取から帰ってきて、こちらで暮らせと言った。それが、難しいなら、麻衣子が天国に行った後は、私ができるだけ、麻美の近くに引っ越すと言った。鳥取とつくばの中間でも、1mでも鳥取の方に近いところにだ。私は真剣に話したのだが、麻美は笑っていた。
 食事を終えて、麻美と私は、病室に戻った。
「重複障害児を担当していたとき、自腹でおもちゃをたくさん買ったものがあるんだよ。たくさん買い続けたのは、将来、孫ができたら一緒に遊べるのではという思いもあったからね。でも、孫が生まれないのだとしたら、新しいマンションへの引っ越しのとき、おもちゃを全部処分しなければならないな」と麻衣子に話したら、麻衣子は笑った。
 それから、海外旅行の面白いエピソードについても話題にした。エジプトでらくだに乗っての記念撮影で、私がカメラに向かってピースをしたら、一緒のツアーの人が笑ってたね。「余裕だね」って。
 麻衣子が言った。
「麻美と、・・・、3人で」
「どうなった?」 
 新しいマンションの部屋のことなのか、病名のことなのか。私には、その意味が分からなかった。
 心電図の電極が体につけられた。
「あなたのお父さん、心臓が弱かったよね」(私)
「うん、私は大丈夫」(麻衣子)
 麻衣子の父は、若いころに倒れた。狭心症だった。その後、好きなタバコもやめ、健康に気を付けて生活した。それが、良かったのだろう。義父は80過ぎまで長生きした。父親似の麻衣子は自分も同じように、最期は心臓の病気で死ぬものと信じていた。
 電極がつけられたので、いよいよカウントダウンが始まったのかと私は思った。麻衣子は、車いすに乗るときも、立ち上がるのがやっとで、すべて全介助になった。どんどん悪化する自分の病気に絶望を感じているに違いない。もう、真実を隠すことは無理なのか。いっそのこと告知をして、言い残しておきたいことを聞いておくべきなのか。私は悩んでいた。
 夜になって、麻衣子が、「たぶんだめね、誰もわからないね」と言った。自分の病気のことなのだろうか。
 電話の話題になった。「子機がうまく使えない」と麻衣子が言った。何のことだろう。視覚障害に関することだろうか。
 この頃、私が最も心配していたのは、この病気は苦痛があるのかどうかということと、脳の病気だから凶暴になって暴れたりしないかということだった。たとえ、暴言を吐いたりしても、私には、それは麻衣子の人格ではなく、病気が起こしているのだと受け止められるが、他の人をきっと悲しませるだろうと危惧したのだった。