麻衣子の記録 連載第35回

5 転院
7月7日(火)
 転院日だった。そして、今日は七夕の日だった。朝から、ずっと発作があった。激しく、全身の筋肉が収縮する発作。両腕が回旋する発作。
 看護師さんから、退院は普通の洋服でと言われていた。だから、パジャマを洋服に着替えさせた。麻衣子は、介護タクシーの運転手によって、ストレッチャーで病室から、玄関に停まっている車まで運ばれた。忙しいはずの看護師長さんがわざわざ、玄関まで見送ってくれた。私と義母がタクシーに同乗した。
 私たちは、M中央病院へ向かった。美帆は、大学病院の支払いを終えてから、車で後を追いかけてくることになった。私は、大学病院を追いだされたような、惨めな気持ちで、転院先の病院へ向かった。
 やがて、車はM中央病院に到着した。この病院は、大学病院と比べれば、当然小さなものだった。最初に目に入った待合室も、小さくて古めかしかった。ああ、この小さな病院で、麻衣子は人生の最期を迎えことになるのかと思うと、悲しかった。
 最初に、ケースワーカーに会った。私は、ケースワーカーに、「個室はないのですか?」と尋ねた。「4階には個室はありますが、すぐ2週間後には2階に移りますので、そこには個室はありません」というので、私は個室をあきらめざるを得なかった。それから、おむつ代として、一日につき、これだけかかりますと言われた。
 あとからやってきた美帆に、おむつ代のことを話すと、美帆は、「おむつがそんなに高いわけがない」と言った。大学病院では、おむつなどの生活用品は、私が病院内の売店で購入したものを使って、看護師さんが取り替えてくれた。でも、地方の病院では、システムが異なり、おむつ替え担当の方の人件費も含まれているのだからと話したが、美帆は納得しなかった。
 院長による、診察が始まった。院長はキャリアに乗せられた麻衣子には目もくれず、大学病院からの申し送り書面に目を通して驚いたようにこう言った。
「こんなのでは、いくらも持ちませんよ」
 私は、返答に詰まった。私が、答えに窮しているのを見て、後ろから、美帆がこう言った。
「母は、延命措置なんか望んでいません」
 私は、美帆の発した言葉にただ驚くだけだった。美帆は自信たっぷりに、母親の希望を代弁したのだろう。父親の考え方は間違っている、母親のことは、誰よりも、娘の自分が一番わかっているのだと。
 医師は、「わかりました」と言った。
 診察が終わってから、診察室の前のベンチで、脇にいた義母に、私は泣き声で「美帆は冷たすぎる。麻衣子がかわいそうだ」と訴えた。でも、義母は、いつものように、私よりも、孫の方を支持した。
 はじめに、麻衣子が運ばれたのは、本来は6人部屋なのに、8つのベッドが並べられた大部屋だった。麻衣子のベッドは、入り口近くの角にあった。そのベッドのそばに、小さな椅子を一つだけ、やっと置くことができるほどの窮屈な場所だった。その大部屋の8つのベッドには、声も出さず、ベッドの上で弱々しくもがく寝たきりの老人たちがいた。ある老人は、体が変形していて、その寝ている姿勢も大儀そうだった。ベットの端には、一つずつ、紙おむつが置かれていた。手際よく、順番に交換するための準備だろうか。
 麻衣子には周りの様子はわからないのだから、どんな部屋でも同じかもしれないが、私は、惨めで耐えられなかった。麻衣子をこんなところに置くなんてと、悲しくてやりきれなかった。大部屋を出て、少し広い廊下に、イスとテーブルのあるコーナーがあった。そこで、義母が買ってきてくれたおにぎりを食べた。
 食事を終えて、私は麻衣子のベッドにまた行ってみた。私は、ちょうど、そこにいた看護師さんに、「個室はないのですか?」と尋ねた。すると、意外にも、「個室が1つ空いています」という言葉が返ってきた。私は是非、そこに移りたいと話した。看護師さんは、「1日4000円の差額ベッド代がかかりますよ」と言った。「お金は大丈夫です、お願いします」と私は言った。
 しばらくして、私たちは個室に移ることができた。私は、うれしかった。これで、ずっと、麻衣子のそばにいてやれると思った。今の私が麻衣子にしてあげられるのは、できるかぎり、そばにいることだけだったからだ。