今日から、試験的に、私の小説を連載します。(麻衣子の記録 連載第1回)

今日から、試験的に、私の小説を連載します。

 

ま え が き
 運命というものは、突然やってくるものだとつくづく思います。
 我が家にあんな恐ろしい病気がやってくるとは考えもしませんでした。しかも、病気は家族の争いまで引き起こしました。
 この記録が形を得たのには、理由があります。妻の麻衣子が、得体の知れない病魔に襲われ、悩み苦しんでいるとき、私にこう言ったのです。
「もし、この病気から生還できたら体験記を書きたい」
 それに対して、私はこう言いました。
「私は、24時間テレビの障害者ドラマの脚本を書くよ」
 でも、麻衣子は、この恐ろしい難病から、生還できませんでした。
 麻衣子の病状の変化については、毎日、メモを取っていました。 それは、麻衣子に代わって体験記(病床日記)を書くためでした。
 病床日記を書くことは、麻衣子の告別式の参列者に対する私の公約でもありました。でも、すぐには、取りかかることができませんでした。
私は、麻衣子の闘病中に転居しました。その原因は、美帆(次女)との不和でした。そのことを公にするのをためらったのです。
 時間はどんどん過ぎていきます。私の記憶もどんどん薄れていきます。
 あれから、5年近く過ぎ、もし、このまま放置したら、書くことができなくなってしまうとの思いで取りかかりました。記憶と、メモと、娘たちとやりとりしたLINEの記録を元に、なんとか書き上げました。
 一番辛かったのは、麻衣子を撮影した動画を観ることでした。5年の月日は流れても、映像に現れるのはあのときの、病気に苦しむ麻衣子の鮮明な姿でした。それは、私にとって、悲しみを再体験する、つらい日々でした。
 なぜ、麻衣子はあんな恐ろしい病気にかかってしまったのだろう。
 ああすれば良かったのではないか。
 こうしてやれば良かったのではないか。
 考えるのは、そんなことばかりでした。
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 当初、この記録を広く公開しようと考えていました。それで、小説という形式にして、登場人物を仮名にしました。でも、モデルは簡単に特定できてしまいます。もともと、麻衣子の闘病記録を関係者に読んで貰うために書いたのですから。
 広く公開するためには、他にも様々な制約がありました。そのひとつ、歌詞や商標・商品名です。歌詞は掲載せず、商品名では、「カルピ○ウォーター」を「乳酸菌飲料」、「アイス○ン」を「冷やし枕」というように普通名詞に変えました。でも、なんか、変ですね。
 また、悪役の美帆だけでなく、そのほかの登場人物についても、作者の一方的な見方で描いていますから、モデルとなられた方々の反論も覚悟しなくてはなりません。
 前半に較べて、後半は、単調です。後半は、麻衣子の様子を記録したメモを転記した部分が多くなってしまったためです。できるだけ、いろいろなエピソードを加えようと試みはしましたが、5年という時間の経過のために、忘れてしまったことが多く、無理でした。
 100万人にひとりという珍しい難病を記録したこの冊子を、この病気に苦しむ方や、そのご家族の方にも読んで貰いたいと、いろいろと工夫したわけですが、広く公にするには、やっぱりハードルが高い気がしました。
 そこで、麻衣子の発病から亡くなるまでを記録したこの冊子を私家版として限られた関係者にだけ配布することにしました。
 話は変わりますが、最近、我が家にうれしい出来事がありました。この3月、麻美は男の子を出産しました。初孫です。8月末には美帆が結婚しました。現在、美帆夫婦と私は極めて円満な関係です。
 それから、私は、今も、元気で悠々自適な独居老人です。コロナで巣ごもりの中、この記録をまとめました。
  2020年9月   カミル 









目    次

1  発  病 ・・・ 6
2 入院と宣告 ・・・ 36
3 言葉を失う   ・・・ 60
4 発作に苦しむ ・・・ 70
5 転  院 ・・・ 118
6 療養病棟で ・・・ 137
7 高熱に苦しむ ・・・ 215
8 旅 立 ち ・・・ 255

 

1 発病
「悲しみは駆け足でやってくる」という昔の流行歌を思い出した。
 私が、初めてこの歌を聴いたのは、高校生の時だった。この歌は当時、大ヒットしたので、ラジオやテレビでよく聴いたものだ。今でも、歌詞もメロディもよく覚えているから、口ずさむことだってできる。人生経験がまだまだ未熟だったそのころの私が歌詞の意味をどう理解していたかは覚えていない。でも、この歌のタイトルに、強い印象を持ったことだけは確かだ。
 あれから、50年の歳月が流れた。
 2015年の桜の季節のことだった。私たちのところに悲しみが駆け足でやってこようとしていた。私たち家族に、あの、つらい悲しい日々が近づいていた。まるで、悲しいドラマのような日々が始まろうとしていたのだ。
 私と妻と次女の3人の団地暮らしの中で、定年後の私の悠々自適の生活は3年目に入っていた。聾学校に勤務している妻の麻衣子は忙しい新学期を迎えていた。麻衣子は幼稚部3歳児6人の担任だった。幼稚部の1クラスの定員は6人で、ベテランの麻衣子は、幼稚部の中でも、最も幼児の多いクラスを任されていた。後で聞いた話だが、昨年度は幼児の数こそ少なかったものの、保護者への対応で、とても苦労していたらしい。それでも、好きで一生の仕事として選んだ聾学校教師にやりがいを感じ、頑張っていたのだった。
 次女の美帆は公立図書館に勤務していた。採用されて、まだ2年目だった。財テクが趣味で、親の元で生活して節約し、自分の給料はそのほとんどを貯金するというような娘であった。いわば、独身貴族のパラサイトだ。
 美帆より2歳上の長女の麻美は、鳥取で暮らしていた。高校生の時、入りたい学部があるというので、鳥取の大学を受験した。農学部だった。その鳥取の大学を卒業した後も、鳥取がすっかり気に入ってしまって、つくばには戻ってこようとはしなかった。麻美は鳥取で大学生支援の仕事をしていた。
 麻美と美帆は、年齢で2つ、学年では1つ離れていた。でも、双子のような育ち方をした。姉が友達と遊ぶ時、妹は、いつも姉にくっついていき、一緒になって遊んでいた。能力面でも身体面でも姉の方がはるかに勝っていたが、妹は常に姉をライバル視していて、姉に追いつき追い越そうとしていた。そのためなのだろうか、人一倍の努力家ではあった。
 美帆は、赤ちゃんの時の一時期、少し成長が止まり、大きくならなかった。その後も、それを、なかなか取り戻すことができなかった。体が小さかったので、保育園では、最も幼いクラスの桃組に2年間続けて所属した。そんなことも、美帆の性格形成に影響を及ぼしたのかもしれない。言い出したらきかない、わがままな性格であった。高校卒業後の進路では、大学受験はしないと言い出した。外国語専門学校へ行って、外国の大学に進むのだと言った。希望通り、1年間、高田馬場の外国語専門学校に通った。駅までは、毎日、私が送り迎えをした。駅は私の職場までの途中にあったから好都合だった。そして、翌年、オーストラリアの大学に入学した。しかし、何か嫌なことでもあったのだろうか、1年後、日本に戻ってきた。そして、今度は、1年間、受験勉強をして、山梨の小学校教員養成の大学に進んだ。でも、教員にはならなかった。安定志向ではあっても、教員の両親の姿を見ていて、教員という職業に少しも魅力を感じなかったのであろう。
 麻美の方は、天然でおおらかな性格だった。子供の頃、私が、姉より妹ばかりかわいがっているように見えたのか、麻美は、「パパは麻美のことが嫌いなんだ」と言っていたことがあった。
 私たち夫婦は、夫婦円満だと思っているが、麻美は小さい頃、両親は仲が悪いと感じていたようだ。そういえば、小学低学年のとき、授業参観があった時、私も麻衣子もお互いに仕事を休めないよと、子供の前で言い合ったことがあった。そういう場面が、子供の心に強い印象を与えてしまうのかもしれない。
 長女は私に似て、次女は母親に似たようだ。このことについては麻衣子も同意見だったように思う。私は、麻美になら何でも話せるのに、美帆にはそれができなかった。私は美帆を恐れていた。美帆に何か言えば、取り返しが付かないほど、関係が悪くなってしまうのではないかと。
 私と麻衣子は、麻衣子が今勤めている聾学校で知り合った。麻衣子は結婚直前まで、私に、自分の父親はサラリーマンとだけ言った。でも、本当は有名大学出身のエリート商社マンであった。しかも、大きな商社の重役だった。麻衣子は茨城の大学に入学するまでは、ずっと都会で暮らしていた。一方、私の実家は、田舎の小売商で、私は山の中で育った。さぞ、麻衣子の両親は不満だったに違いない。麻衣子は私の実家で暮らしてもいいと考えていたが、麻衣子の両親は納得しなかった。麻衣子は母親に、「あなたはあんな田舎では、暮らせないでしょう」と言われた。
 私の両親は、長男である私の結婚を手放しで喜んでくれたが、満足ばかりではなかったはずだ。少し前の田舎のことだから、長男はお嫁さんをもらって両親と同居が当たり前だった。ところが、大切に育ててきた長男が結婚して家を出ていくというのだから、本音を言えば不満だったろう。私は麻衣子と結婚したいという自分の欲望を押し通すだけの親不孝者であった。でも、私の5つ下の弟があとを引き受けてくれたので、私と麻衣子は結婚することができたのだった。結婚後、私たちは、つくば市のマンションで新婚生活を始めた。
 私が麻衣子との結婚を強く望んだのだから、自分がどんなに悪く言われようと、それでいいと思っていた。そして、私は、都会育ちの麻衣子を守ってやらなければならないとも思っていた。
 麻衣子は、男のような、竹で割ったともいうべき性格の女性だった。結婚してからだんだんと、我が家の主導権は麻衣子に移った。美帆は、いつの間に、母親から、私の扱いを学んだのだろう。しだいに、母親と同じように私に対するようになっていった。私は、自分自身が叱られるのを極端に嫌っていたし、子供は、優しく扱われれば、気持ちの優しい人間に育つものだと考え、子供たちには常に優しく接してきた。娘たちを叱ることもほとんどなかったので、子供たちにとって、母親は怖いが、父親の方は怖くもなんともない軽い存在になってしまったのかもしれない。逆に、私の方が美帆に気を使っているというありさまで、私は常に弱い立場にあった。後になって、「あなたたちの育て方が悪かったのよ」と、義母に言われたことがあったが、私たち両親の教育の失敗が、私に対する美帆の態度を増幅させていってしまったのかもしれない。教育者の端くれの身で、恥ずかしい限りだ。
 我が家の3人の序列は、麻衣子、美帆、私の順であった。そして、麻衣子を取り合う三角関係と言うべき関係だった。就職して、一人前になったのにもかかわらず、美帆は母親にくっついて、独立しようとしない。そして、母親を巡って父親と張り合っている。そんな状態だったと思う。そこに、あの出来事がやってきたのだった。