今日から、試験的に、私の小説を連載します。

今日から、試験的に、私の小説を連載します。

 

タイトルは、「100万人に一人の難病と闘った妻の記録 ~クロイツフェルト・ヤコブ病の病床日記~」です。

 

発病まで

「悲しみは駆け足でやってくる」という昔の流行歌を思い出した。
 私が、初めてこの歌を聴いたのは、高校生の時だった。この歌は当時、大ヒットしたので、ラジオやテレビでよく聴いたものだ。今でも、歌詞もメロディもよく覚えているから、口ずさむことだってできる。人生経験がまだまだ未熟だったそのころの私が歌の意味をどう理解していたかは覚えていない。でも、このタイトルに、強い印象を持ったことだけは確かだ。
 あれから、50年の歳月が流れた。
 2015年の桜の季節のことだった。私たちのところに、悲しみが駆け足でやってこようとしていた。私たち家族に、あのつらい、悲しい日々が近づいていた。まるで、悲しいドラマのような日々が、始まろうとしていたのだ。
 私と妻と次女の三人の団地暮らしの中で、定年後の私の悠々自適の生活は3年目に入っていた。ろう学校に勤務している妻の麻衣子は忙しい新学期を迎えていた。麻衣子は幼稚部3歳児6人の担任だった。幼稚部の1クラスの定員は6人で、ベテランの麻衣子は、幼稚部の中でも、1番子供の多いクラスを任されていた。後で聞いた話だが、昨年度は子供の数こそ少なかったものの、保護者への対応で、とても苦労していたらしい。それでも、好きで一生の仕事として選んだろう学校教師にやりがいを感じ、頑張っていたのだった。
 次女は公立図書館に勤務していた。採用されて、まだ2年目だった。財テクが趣味で、親の元で生活して節約し、自分の給料はそのほとんどを貯金するというような娘であった。いわば、独身貴族のパラサイトだ。
 私は、わずかな年金と、退職金から少しずつ取り崩した分を合わせて、生活費として麻衣子に渡していた。次女は、私よりも収入が多いのに、3人の生活費の一部すら負担していなかった。次女は、小学生の時から、祖母などからもらった小遣いはためるばかりで、けっして買い物に使おうとしなかったのに、ある日、小さな手提げ金庫を買ってきたのに、私は唖然とした。将来、どんな大人に成長するのだろうとおもった。
 次女より2歳上の長女は、鳥取で暮らしていた。高校生の時、入りたい学部があるというので、鳥取の大学を受験した。農学部だった。その鳥取の大学を卒業した後も、すっかり鳥取がすっかり気に入ってしまって、つくばには戻ってこようとはしなかった。卒業後は、鳥取で、大学生支援の仕事をしている。
 長女と次女は、年齢で2つ、学年では1つ離れていた。でも、まるで、双子のような育ち方をした。姉が友達と遊ぶ時、妹は、いつも姉にくっついていき、一緒になって遊んでいた。能力面でも身体面でも長女の方がはるかに勝っていたが、次女は常に姉をライバル視していて、姉に追いつき追い越そうとしていた。そのためなのだろうか、人一倍の努力家ではあった。
 次女は、赤ちゃんの時の一時期、少し成長が止まり、大きくならなかった。その後も、それを、なかなか取り戻すことができなかった。体が小さかったので、保育園では、最も幼いクラスの桃組に2年間続けて所属した。そんなことも、次女の性格形成に影響を及ぼしたのかもしれない。言い出したら聞かない。高校卒業後の進路では、大学受験はしないと言い出した。外国語専門学校へ行って、外国の大学に進むのだと言った。希望通り、1年間、高田馬場の外国語専門学校に通った。主に駅までは、私が送り迎えをした。駅は私の職場までの途中にあったから好都合だった。そして、翌年、オーストラリアのタスマニア大学に入学した。しかし、1年後、嫌なことがあったのか、日本に戻ってきた。そして、今度は、1年間受験勉強して、山梨の小学校教員養成の大学に進んだ。でも、教員にはならなかった。教員の両親を見ていて、教員に魅力を感じなかったのであろう。
 姉の方は、天然でおおらかな性格だった。長女は私に似て、次女は母親の方に似たのかもしれない。このことについては麻衣子も同意見だったように思う。
 妻の麻衣子は、男のような、竹で割ったともいうべき性格の女性だった。結婚してからだんだんと、我家の主導権は麻衣子に移り、常に一家に君臨していた。次女は、いつの間にか、母親の行動を学んだのだろう、母親と同じように私に対するようになっていった。私は、自分自身が叱られるのを極端に嫌っていたし、子供は、優しく扱われれば、気持ちの優しい人間に育つものだと考え、子供たちには常に優しく接してきた。娘たちを叱ることが全くなかったことで、子供たちにとって、母親は怖いが、父親の方は怖くもなんともない軽い存在になってしまったのかもしれない。逆に、私の方が次女に気を使っているという有り様で、私は常に弱い立場にあった。後になって、「あなたたちの育て方が悪かったのよ」と、義母に言われたことがあったが、私たち両親の教育の失敗が、私に対する次女の態度を増強させていってしまったのだとも思う。教育者の端くれの身で、恥ずかしい限りだ。
 我が家の3人の力関係は、麻衣子、美帆、私の順であった。そして、麻衣子を取り合う三角関係と言うべき関係だったといっていい。仕事を持ち、一人前になったのにかかわらず、母親にくっついていて、独立しようとしない。それで、父親と母親を巡って張り合っている。そんな状態だったと思う。そこに、あの出来事がやってきたのだった。