麻衣子の記録 連載第8回

2 入院と宣告
5月15日(金) 
 朝8時、埼玉から義母がやってきた。早速、3人と麻衣子の4人で、どうやったら、大学病院の脳外科の診察を受けることができるかについて相談を始めた。これまで、ずっと、「病状が進行したら、救急車を呼んで行けばいい」というのが、麻衣子と私で考えていたことだった。でも、救急車で搬送してもらうには、かなり、症状が緊迫している必要がある。麻衣子が言った。
「救急車が来たら、私は意識を失ったふりをすればいいのね」
 美帆が相談センターに電話をして、いろいろと尋ねた。センターの担当者の答えはこうだった。「今の患者の状態では、脳外科で診察を受けるのは難しいでしょう。救急車というほどの状態でもないし、救急車で搬送しても、脳外科で診てもらえるとは限らない」と。
 4人でいろいろと策を考えた結果、Nクリニックを再度受診することに決めた。電話で予約を取り、クリニックへ行った。クリニックに着くと、私は、「大学病院での検査があるまで、自宅で待っていたのですが、病状が日に日に悪くなったので、来ました」と受付の女性に理由を話した。診察まではそれほど待たされなかった。3度目のMRI検査が実施された。今度は、後頭部に影が映っていた。麻衣子がじっとしていられなかったのか、画像がぶれてはいたが、画像に現れている白い模様は、素人の私にもわかった。
 医師の説明では、脳梗塞のような病気は血管が詰まって、瞬時に症状が現れるのだという。それに比べ、脳腫瘍の場合は、とてもゆっくり進行するのだという。それらと違って、麻衣子の場合は、日に日に病気が進行している。そのような場合の多くは、感染なのだと、その医師は言った。その時、医師には、麻衣子の病気がわかっていたのかもしれない。
 私たちの目の前で、大学病院の脳外科に電話をかけ、話し始めた。医師の使う専門用語の意味は私にはよく分からなかったが、たぶん、麻衣子の病気について、かなり深く、やりとりをしていたのだろう。 私たちは、これまでのMRIのデータCDと紹介状をもらって、大学病院へ向かうことになった。大学病院へ向かう車の中で、私は、やっと、麻衣子の病気の正体を突き止めてもらえる、しっかりと治療してもらえると、大きな希望を感じていた。
 しかし、大学病院で、その希望は絶望へと変わった。麻衣子の診察には、私だけが付き添った。目の前の医師の片方の目は、義眼で、ちょっと怖い感じがした。医師の前で、椅子に座る麻衣子の姿勢をきちんとさせようとした時、医師が私に言った。
「いいえ、無理しないで、そのままで」
 麻衣子を一目見れば、それで、十分だったのだろう。診察といえるほどのものは何もなかった。
 それから、しばらくして、その医師が戻ってきた。義母が自分も一緒に話を聞こうと椅子から立ち上がったが、医師は、「ご主人だけで」と言った。私はひとり不安な気持ちで、別室まで、その医師についていった。すでに、病院の医師のチームで、MRIの画像やクリニックからの申し送り資料について、検討を終えた後なのだろう。医師は私にこう言った。
「○○○病を疑っています。これから脳神経内科とも連携して、検査を進めていきます」
 そのとき、私は、○○○病という言葉が聞き取れなかった。それで、パソコンの画面の方に注意を向けた。下の方に書かれている文字が私の目に入った。ヤコブ病?、ミトコンドリア脳症? 私は初めて知る病名をしっかりと記憶した。私は、どんな病気なのだろうと、怖い気がした。医師の話はすぐに終わり、私は、義母と麻衣子のところに戻った。
 しばらくして、担当の看護師さんがやってきて、脳外科への入院の手続きが始まった。血液検査、X線撮影など、入院前の検査がいくつかあった。その検査の合間、私は義母に気づかれないように、しっかり記憶していたその病名について、スマホで調べていた。
 クロイツフェルト・ヤコブ病
異常プリオン蛋白質が脳内に侵入し、脳組織に海綿状の空腔をつくって脳機能障害を引き起こすもので、進行が早く、ほとんどが1、2年で死に至る。一般的には初老期に発病し、発病初期から歩行障害や軽い認知症、視力障害などが現れる。・・・・・
 
 そこに書かれていたのは、まさしく、これまでずっと私が目撃してきた麻衣子の症状そのものだった。ああ、これが麻衣子の病気だったのか。麻衣子の病気は、こんなに恐ろしい病気だったのか。うすうす、何か怖い病気ではないかと考えないわけではなかったが、こんなに恐ろしい、余命いくばくもない病気とは。これは、本当に現実なのかと、私は深い絶望の淵に突き落とされていた。
 私は、それを、一緒にいる義母にも美帆にも話す気には、とてもなれなかった。だから、私は、そのあとも、自分の心の動揺をひたすら隠し、気づかれないようにふるまった。
 ほどなく、麻衣子は脳外科の病棟の大部屋に入院した。そこは、新棟の高層階のきれいな病室だった。夕方には、麻衣子の弟の孝史さんもやってきた。さらに、病院では、たくさんの検査が続いた。 私は、麻衣子の勤務先の聾学校の教頭先生に、検査入院の件を伝えた。夕方、義母と孝史さんは、埼玉へ帰った。午後9時ごろ、病院を出て、私と美帆は家に戻った。夜、麻美と電話で話をした。疑われている病名を麻美に話した。私は、麻美にできるだけ早く、つくばに来るように話した。
 
5月16日(土)
 とうとう、私は、朝まで一睡もできなかった。疑われている、その恐ろしい病気のことを繰り返し繰り返し考えていて、眠れなかったのだ。
 朝、美帆といっしょに病院へ行った。麻衣子は、さらに、ろれつが回らなくなっていた。麻衣子が言った。
「背中が痛い。いつまで入院するのだろう。検査の日程ぐらい教えて欲しい」
 この先、麻衣子の病気はどんな経過をたどるのだろう。私は、それが、恐ろしかった。
 午後9時過ぎ、美帆と一緒に団地に戻ってきた。今日、美帆は彼氏と会う予定の日だったらしかった。美帆は、その彼氏が自分のことを心配してくれて、すぐ近くまで来ている。今夜、家に泊めても良いかと言った。
「その人と結婚するつもりなのか」と私は尋ねた。
「わからない」と美帆は答えた。
 リビングで、彼と話をして夜を過ごすのだと言ったので、私は、それを許可した。しばらくして、玄関から彼氏が入って来たのがわかった。これからは、娘たちのことについて私がひとりで責任を果たさなければならなくなるだろう。もう、これから、頼りにできる麻衣子はいないのだ。
 麻衣子が入院し、不治の病だとわかった今、私にとって、麻衣子の看護だけでなく、購入するマンションの今後の支払いも大きな問題だった。
 マンションの支払いは、まだ、手付金の650万円を払っただけで、残り2856万(6月と11月に500万円ずつの中間金、入居直前に残りのお金)もあった。それに、麻衣子の医療費がこの先、どれだけ必要になるのかもわからない。私と美帆の生活費のこともある。とにかく、お金が必要だ。私は、自分の預金の残高を確認したが、それらを支払うにはとうてい足りない額だった。
 今、麻衣子がこんな状態では、麻衣子名義の定期預金を払い戻すことはできない。しかも、美帆は、麻衣子に管理を依頼されているのだと言って、預金口座の情報を全く私に教えない。でも、幸いなことに、麻衣子の1枚のキャッシュカードがあった。それは、J銀行の普通預金の口座だった。クリニックに通院したとき、免許証、保険証、このJ銀行のキャッシュカードの入った財布を、私は麻衣子から預かっていた。麻衣子と一緒にATMで預金を引き出したことがあるので、キャッシュカードのパスワードも知っていた。調べてみると、この口座には約1000万円の残高があった。
 そうだ、来年2月までのマンション代金の支払いのためにも、とりあえず、毎日、50万円ずつ引き出して、お金をかき集めておこう。そうすれば、私の退職金の残りとを合わせて、マンションの支払いはなんとかなるだろう。それから、毎日、病棟へ通じるエレベーターの近くのATMで預金を引き出すのが日課になった。
 夜10時過ぎに麻美が電話をかけてきた。麻美といろいろな話をした。
 
5月17日(日)
 とうとう、私はその彼氏とは顔をあわせなかった。朝食は、私の部屋まで、美帆が運んで来た。彼氏は、なかなか帰る様子がなかった。私は、病院へできるだけ早く行きたかったので、イライラしていた。美帆が私の部屋に果物を持って来た時、しびれを切らしていた私は、美帆に、「病院のママが待っているよ」と言った。「つらいだろうけど、今は、ママのそばに居てあげることが一番だからね。そのうち、ママは何もわからなくなってしまうだろうからね」と。
 彼氏が去ったあと、午前11時頃、私と美帆は病院へ行った。麻衣子は、ベッドで横になっていて、とても、疲れている様子だった。寝ているとき、何か寝言を言ったが、まともな会話を交わせない。朝食はとったようだが、寝ていて昼食はまだとっていない。「頭の具合は?」と声をかけると、麻衣子は「頭は働いていない」と答えた。「何パーセントぐらい働いている?」と声をかけると、答えはなかった。
 また、眠ったようだ。穏やかではある。
 私たちが病室を去るとき、麻衣子は、ぼーっとしていたが、手を振り、バイバイをした。