麻衣子の記録(クロイツフェルト・ヤコブ病の看護日記) 連載第4回

4月24日(金)

 金曜日だった。朝、麻衣子が起きてきて、めまいがするから、今日は学校を休むと言いだした。私は「その方がいい」と言った。私は、内心、ホッとした。やっと、仕事よりも自分の体のことを優先する気持ちになってくれたのだ。無理をしないで、しばらく、体を休めた方がいい。

4月25日(土)

 毎週土曜日は、麻衣子の眼科への通院日だった。午前中に視野検査を受けるため、眼科へ通院した。麻衣子が検査を受けている間、私は車の中で待っていた。やがて、診察を終えて、麻衣子が私の車に戻ってきた。早速、診察の結果について尋ねた。

「で、どうでしたか?」

「あのね、もう一か所、別の病院へ行かなくちゃいけなくなっちゃったの」

「今日?」

「脳外科のクリニックへの紹介状を書いてもらったから、そこで、MRIをとるの。今日の午後だったら、MRI検査ができるというのよ」

 車窓から右手に見える人気の焼き芋店には長い行列ができていた。

「視野の検査をしたら、視力はあるんだけど、視野の左のほうが見えてないっていうの」

「片方が?」

「お医者さんから、頭を打ったりしませんでしたかって言われたわ」

「しばらく休養したらいいんじゃない。検査が済んだら、治療が必要になるかもしれないしね」

「腫瘍だったら、すぐわかるかもしれない。なんとなく腫瘍のような気もしてた。もし、そうだったら、大きな病院に行くかもしれないわ。申し訳ないんだけど、午後、そこへ連れてってほしいの。早い方がいいでしょう」

 もちろん、病気に対する不安はあったのだろうが、話す声には暗さというものはなく、むしろ、明るかった。本当は、その日の午後、マンション建設業者の事務所へ行く予定だったのだが、急に通院ということになったので、建設業者の方は連絡して期日を延期してもらった。

 午後、眼科で紹介された脳外科のクリニックに行って、MRI検査を受けた。結果は、脳下部動脈瘤の疑いというものだった。そこで、来週の月曜日に、もっと精密な検査である「造影MRI検査」を受けることになった。

4月26日(日)

 午前10時30分、麻衣子と私は、購入予定のマンションのモデルルームを見に行った。麻衣子と美帆は来たことがある事務所だったが、私は、初めてだった。麻衣子と美帆が選んで申し込んだのが、6階4LDKの物件で、価格は3506万円だということ、そして、それが、来年2月完成予定だということを知った。麻衣子は、以前も来ていて、すでに説明を受けていた最新設備のいくつかをうれしそうに私に説明した。麻衣子にとっては、病気の不安の中にあって、新しいマンションを購入することは、唯一の希望だったに違いない。  大学病院に入院する直前、症状が悪くなっていた麻衣子は義母に対して、「私は、新しいマンションに行けないかもしれない」と漏らしたと、後日、義母から聞いた。麻衣子は、義母に話したとき、翌年の2月のマンション完成までに自分の命が消えてしまうかもしれないと、漠然と思っていたのかもしれない。  麻衣子と一緒に、スーパーマーケットに行くことが多くなった。麻衣子は、混雑しているお店の中で、お客とぶつかるようなこともなかった。ただ、私は、麻衣子が食材を探し、遠くを眺めているその姿に、違和感を持った。遠くを見つめている麻衣子の目は、とてもきれいだった。何か、麻衣子とは別人のようにも思えた。かぐや姫のように、私から、遠ざかって、やがて、月へ行ってしまうような予感がした。

4月27日(月)
 造影MRI検査を受けるため、Nクリニックに再度通院した。造影MRIの結果は、「異常なし」であった。3方向から撮影したが、脳はとてもきれいだと医師は言った。医師は、ボールペンを麻衣子の目の前で左右に動かし、追視を試した。
「ちょっと変だね、反応の方向がまるで逆だ」
 麻衣子が、医師に、仕事を続けてよいか、症状が進行していくというようなことはないのかと尋ねた。
「眼科で視覚を評価してもらいながら、仕事を続けるしかないでしょう」というのが医師の答えだった。
 診察を終え、自宅に戻る車の中で、ホッとした私はこう言った。
「とにかく、よかったよ。私が一番心配してた動脈瘤じゃないのがわかったんだからね。美帆は、動脈瘤は、くも膜下出血につながる怖い病気だから、検査結果が出たら早く知らせてねと言ってたよ」
「でもね、だったら、私の病気はなんなんだよ。これじゃあ、学校を休めないわよ」
「年休をとるのに、理由なんか必要ないさ。もし、年休が尽きて、そのあとも、療休のための診断書がもらえなかったら、その時は退職すればいいさ」と、私は、笑って言った。
 そして、私は、麻衣子の退職後の生活を思い浮かべながら、こう言った。
「美帆が言ってたよ。今度購入するマンションは、少しぐらい目が不自由だって、生活するのには便利だからって」
 私は、もう、麻衣子は仕事をやめて、ゆっくり過ごすべきだ、それが一番いいのだとずっと思っていた。
 車の中で、さらに、話は続いて、
動脈瘤だったら、手術しなくちゃならないだろうから、ちょっと大変だったな」
「手術して治るんだったら、私は手術でも何でもしたいわよ」
「脳の手術って、とても、大変な手術なんだよ」
 そのとき、私は、30年前、父が脳腫瘍で、脳の大手術をしたことを思い出していた。父の闘病は本人自身も大変だったし、看護に当たる姉、弟、私の3人も大変だった。あんな、つらい経験はもう二度としたくないと思っていた。そんな経験があったせいなのかもしれない。私は、「脳には異常がない」という検査結果に満足して、上機嫌になっていたのだ。
「静養だ、静養」と、私は言った。
 午後になった。思いついたように、麻衣子は、「私の病気って、いったい何なんだ。よし、もう一度、眼科に行く」と言い出した。私は、少し億劫だったが、結局、麻衣子を車に乗せ、眼科へ向かった。今回は、私も、一緒に眼科医の話を聞くことにした。眼科医の話では、視野検査を行ったら、左右とも、左半分が見えていないのが分かったのだという。
「念のためと思って、視野検査をしてみてよかったわよね。視野欠損が見つかって」と眼科医は言った。それで、これはもう、目そのものの病気ではなく、もっと上位の神経の疾病が疑われるので、脳外科を紹介したというのだった。
 麻衣子が眼科医に質問した。
「このまま、仕事を続けても大丈夫なのでしょうか?」
 それをさえぎるように、私は言った。
「今の状態では、幼稚部の子供たちの教育の仕事はとても無理だと思うんです」
「そうねえ、この前、小学1年生の眼科検診に行ったけど、子供たちがちょろちょろして大変だったわ。この状態で、小さい子供を扱うのは危険だわねえ」
 でも、現在の状態では、私たちが期待している、療休のための診断書は出せないということだった。そして、眼科医は、こう言った。
「それじゃあ、もう一度、視野検査をやりましょう」
 再度の視野検査は翌日の9時30分からということになった。その後、麻衣子と私は、クレオスクエアへ行って、パソコン用の眼鏡を合わせた。麻衣子は、代金を支払うとき、紙幣の他に小銭を数えて支払うことができたので、硬貨の区別はできるんだなと私は思った。